キャリアの物語をつむぐ

働きかた編集者 山中康司のブログ

【読書録】”ソーシャルワークシフト"というコンセプト-『希望をつくる仕事 ソーシャルデザイン』宣伝会議-

「ソーシャルデザインに関するいい本を教えて欲しい」。そんなふうにfacebookで投稿したら、『希望をつくる仕事 ソーシャルデザイン』をすすめられ、読んでみると思っていた以上に参考になったので、なるほどー!と思った箇所をまとめます。

この本で特に印象に残ったのは、以下の点です。

 

・ソーシャルデザインがいま求められている理由

ソーシャルワークシフトとは

 

具体的にみていきましょう。

 

なぜソーシャルデザインがいま求められているのか

この本では、ソーシャルデザインを次のように定義しています。

 

自分の「気付き」や「疑問」を「社会をよくすること」に結びつけ、そのアイデアや仕組みをデザインすること。(2頁)

 

このソーシャルデザインが、いま求められているんだとか。それは、日本が課題先進国と呼ばれるほど、主に少子高齢化によってさまざまな問題が噴出していることに加え、次の3つがソーシャルデザインにとって追い風になっているといいます。

 

  • 消費スタイルの変化

具体的には、”ソーシャル消費”、"エシカル消費2のひろがってきたこと。

 

  • 一般市民の影響力の増大

具体的には、SNS、webが発達したことで、行政やNPONGO、企業やメディア、個人や団体がつながりあう”フラット化した社会”になり、一人の声がムーブメントを起こす可能性を持つようになったこと。

 

  • 企業姿勢の変化

具体的には、CSRCSVのとりくみのひろがりが一般化したこと。

 

これら3つの追い風が吹いているいま、社会課題を解決しようとするソーシャルデザインに関わりやすくなっているのだといいます。

 

ソーシャルワークシフト”とは

そんななかで、働き方も多様になってきています。ソーシャルに働くといっても、以下のような働き方が存在すると筆者は述べます。

 

・自分で起業したり、NPONGOを立ち上げる

・本業を持ちながらパートタイムでNPONGOを立ち上げる

・ボランティアやプロボノとして活動する

・行政やNPONGOに就職する

・いまの仕事で社会課題を意識して働く

・企業の社会貢献に関わる部門ではたらく

 

ソーシャルワークシフト”を実現するために必要な2つのこと

ソーシャルデザインに追い風がふくなかで、働き方もソーシャル側にシフトしていくべきだし、事実そうなっていっているように思います。しかし、アメリカでは新卒者の人気企業の上位にNPOがランクインしているように、日本でソーシャルな働き方が一般的になっているかといえば、そんなことはありません。

 

ソーシャルな働き方が一般的になる”ソーシャルワークシフト”を実現するには、以下のことが大切なんじゃないかな、と僕は思っています。

 

  • ソーシャルな働き方を選択肢の一つとして認知してもらうことと
  • ソーシャルは働き方でもちゃんとご飯を食べることができて、会社員と遜色ない暮らしができるような仕組みを作ること

 

この2つがすすめば、日本でもソーシャルワークシフトが進むのではないでしょうか。

【読書録】ぼくたちが生きる”現代”はどんな社会なんだろう?-「現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書) 」見田宗介-

「ぼくたちが生きる”現代”はどんな社会なんだろう?」

 

これが大学院で社会学を学んできたぼくの、根っこにあった問いです。その問いにたいして、いちばん「そういうことか!」と納得できるこたえを提示してくれたのが、社会学見田宗介さんの『現代社会の理論』でした。

 

 

経済学者の内田義彦さんは、晩年の著作である『読書と社会科学 』(岩波新書)で、人文社会科学には、社会を見つめるための「概念装置」が必要だと説いています。つまり、自然科学では電子顕微鏡などの「物的装置」を使うように、社会をみつめるときにも「概念」という装置、たとえるなら虫眼鏡を使ったほうが、ものごとを分析しやすいよ、ということですね。その意味で、ぼくにとってすごくクリアな虫眼鏡を提供してくれたのが、社会学見田宗介さんの『現代社会の理論』だったんです。

 

前置きが長くなりましたが、現代社会の理論』が示した現代社会のありかたついて、簡単にまとめてみます。

 

現代社会は市場を自分で創り出す

見田さんは、現代社会を「消費化・情報化社会」と呼びます。「消費化・情報化社会」は、市場を自己創出する資本主義が主流になった社会です。

 

第二次大戦ごろまでの資本主義は、基本的矛盾を抱えていました。それは、供給の無限拡大と、需要の有限性に起因するものです。すごく単純に言えば、小麦はどんどん作れるけど、人の胃袋には限界があって、どこかで経済成長は止まる、ということ。行き着く先が、1929年の大恐慌であったり、軍需によってむりやり需要をつくりだす戦争でした。

 

これではいけない。そこでアメリカがとった戦略が、(1)ケインズ主義による「管理化」と(2)モードの論理による「消費化」により需要を作り出す、ということでした。(1)に関しては置いておいて、(2)が画期的。ひとびとの必要にかかわらず、広告によって新しい需要をつくりだすのです。たとえば、マイシーズンモデルチェンジを繰り返すブランドものの服などです。

 

こうして、「情報」を操作することによって需要を無限に創り出すことが可能になりました。需要の限界にもとづいていた資本主義の基本的矛盾はここで解決され、消費が自己生成をつづける、見田宗介さんが言うところの「欲望のデカルト空間」を持った、「消費化・情報化社会」が生まれるのです。

 

見田さんは「消費化・情報化社会」を否定しません。自己を相手の再生産サイクルの不可欠の一環とするという意味で、消費者と社会を「昆虫と顕花植物」にたとえ、「それぞれの幸福は、相手の幸福でもある」と指摘します。

 

昆虫は甘い蜜に誘われて顕花植物から顕花植物へ飛び回る。そんな昆虫の欲望にもとづいて、顕花植物は花粉をはこび、繁茂していく。おなじように、消費者が欲望のままに買い物を楽しむことによって、社会が成長していく。自分の欲望によって社会が成長していくからといって、毛皮のブラウスを買ったり、肉汁したたるステーキを買って食べることが幸せであることに変わりはありません。

 

こうして、ひとびとの欲望を無限に作り出していくところに、消費化・情報化社会の相対的な卓越性と魅力があると見田さんは指摘しています。

 

消費化・情報化社会の「外部問題」

ただ、消費化・情報化社会には深刻な問題があります。それは、自然との臨海面と、外部社会との臨海面にそれぞれ生じます。

 

自然との臨海面

消費化・情報化社会がよってたつのは、以下のような構図を前提にした世界です。 

 

[大量生産→大量消費]

 

この構図であれば、生産と消費は無限に拡大していきます。しかし、実際にあるのは次のような構図です。

 

<大量採取→[大量生産→大量消費]→大量廃棄>

 

無限に需要を自己創出する消費化・情報化社会も、生産と消費のポイントで自然に依存し、その範囲に限定されるのです。その限界を考慮に入れず、犯してしまったとき、水俣病や、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で指摘したような環境破壊が起こります。

外部社会との臨海面

また環境だけでなく、南北問題に代表されるような貧困の問題も生じます。この構図を見田さんは「二重の剥奪」として説明します。

 

まず第一の剥奪として、GNP(国民総生産)を必要とするシステムに組み込まれること。言い換えれば、貨幣を持つことが生きるために不可欠な社会に組み込まれることです。次に第二の剥奪として、GNPが低いこと。つまり単純に「GNPが低い=貧困」ではなく、これら2つの剥奪が重なった時、「貧困」となるのです。(貨幣への疎外、貨幣からの疎外)

 

具体的には、主に北半球の先進孤高の高度化し続ける消費水準が、南の貧困を作り出していることが一般的に指摘されています。それだけではなく、北の先進国でも貧困はあります。(日本でも、貧困率の高さが問題になっていますね)。なぜならば、生きるためにはお金が必要で、その必要なお金の水準は経済成長によって釣り上げられるものの、その「必要」に対応することは社会の完治することではないからです。「必要」に対応することでは、資本主義は成長できないのですから。

※この問題に対して、経済学者の宇野弘文さんは「社会的共通資本」の整備の必要性を説きました。 

 

このようにして、現代社会は自然との臨海面と、外部社会との臨海面にそれぞれ問題を生じさせてきたのです。

 

この本から考えたこと

ここまで見てきたような問題が、ぼくたちが生きる現代社会にはあります。それでは、そうした課題をどう解決していったらいいのか。見田さんは、消費化・情報化社会の射程を開くことで克服していけると主張します。

 

「情報」には(1)認識としての情報(2)設計としての情報という2つの「手段としての情報」と、(3)美としての情報という「直接それ自体が歓び」であるという3つ作用があるとし、美としての情報によって消費社会を非物質的なものによる「生きることの歓び」の地平に着地することで、外部収奪的でない社会にできる…というのです。

 

たしかに、近年フェアトレードなど、エコやロハスがひとつのトレンドになってきており、消費思考がそうした方向へシフトしていけば現代社会の課題は解決の方向に向かっていくでしょう。

 

ただぼくは正直、この「美としての情報」についてまだつかみきれていない。抽象的なので、具体的になにかの活動に落とし込んでいく時に、もうすこし具体的に噛み砕いて行かないとなぁと思っています。

 

さらに、「美としての情報によって…外部収奪的でない社会にできる」というのは、楽観的すぎはしないか。たしかにそうなれば理想的だけども、人間が生まれてから、だれもが「生きることの歓び」を享受し、他人を傷つけないですむ社会が存在したかと言われれば、しなかったんじゃないのかなぁ、と思ってしまいます。ぼくがちょっと性悪説によりすぎてるのかもしれないけれど。

 

現代社会では「情報」ということが鍵になるのは間違いないと思うので、(1)認識としての情報(2)設計としての情報をいかに持続可能な方向に組み替えていくかが、今後問われていくのではないかと個人的には思います。

 

さて、この本で論じられたのは、現代社会が「外部」におよぼす影響であったので、今度は「内部」、つまりぼくたちのアイデンティティにおよぼす影響について学んでいければ。今回はこのへんで。

【備忘録】”職業”はどこから”文化”になるんだろう

動物の場合、レッドリストのような絶滅危惧種の指定があって、指定された種は保護されることになる。

でも僕が知る限り、職業にレッドリストはない。だから、市場で流通しなくなった商品やサービスを扱っていた職業は、基本的に淘汰されてしまう運命にある。

 

先日見たNHKの『プロフェッショナル仕事の流儀』、”最後の職人”の回で紹介されたのは、そんな失われつつある運命にある技術をもつ職人だ。

日本でただひとりしか出来ない、漆カンナを作る技術を持つハガネ職人。そして、人間国宝も惚れ込む技術を持つヤスリ職人。彼らの技術は、ミリ単位の正確さがギリギリまで突き詰められていて、本当に胸を打たれるものがある。

 

そうした技術を目の当たりにするにつけ、「職業は、必要とされなくなったものは無くなる運命にまかせてしまっていいんだろうか? 」という思いがよぎった。

この問題、どうなんだろうな。言い換えれば、職業はある段階から、経済に属することがらではなくて文化に属することがらになるのかもしれない。そう考えると、文化の保護という観点で、職業の保護が必要になってくる。

 

人間国宝とかいった仕組みも、文化の域に達した職業をまもるしくみなんだろう。いったいどの一線から、職業は文化になるのかについては、あらためて考えてみたい。

 

参考:「中畑文利/やすり職人・深澤敏夫(2016年2月22日放送)」これまでの放送 |NHK プロフェッショナル 仕事の流儀

このブログの目的

ブログをはじめるにあたり、そもそもの目的をまとめておこうと思う。

 

大きな目的は将来の大学院のため

僕は将来、といっても20年後か30年後かわからないけれど、大学院で学びたいと思っている。なにか勉強するのが好きだし、自分がやってきた仕事を理論と結びつけて社会に還元することができたらいいな、と漠然と思っているのだ。

 

どんな分野をかはこれからじっくりと決めていく。きっといろいろな仕事を経験するなかで、「これ」と思う分野が見つかるはずだ。

 

そんなわけで、20年後か30年後かわからない大学院での研究のために、いまのうちから準備をしておこう、と思って始めるのがこのブログ。まだはやいだろう、と思われるかもしれないけれど、1日15分でも時間をとって、文章にまとめる作業を20年も続けるのと、そうでないのとでは、その先の研究はだいぶ違ったものになるはずだと思う。

 

小さな目的

この大きな目的は、いくつかの小さな目的にわけられる。

概念装置の獲得

概念装置とは、経済学者・内田義彦さんが『読書と社会科学 』(岩波新書)でいうところの、ものごとを見る枠組みのようなもの。同じチューリップを見ても、パリのテロのニュースに触れても、この概念装置が違えばそこから導き出す考えはまったくちがうものになる。

 

ぼくはいろいろなことがらを考えるとき、いまのところ直感で「好き」「嫌い」のように判断していて、なんか気持ち悪いなぁと思っていた。「これこれこういう見方をしているから、好きなのだ」と、ちゃんと語れるようになりたい。なおかつ、ブレない視点を身につけたい。

 

だから、概念装置を獲得するために、日頃から感じたことを理屈と結びつけて文章にすることをしておきたい。

知識の体系化

概念装置の話ともつながるけれど、日常で得るさまざまな知識を、結びつけて、体系化しておきたいというのも目的のひとつ。

 

僕は記憶力が悪いのか、勉強したことも発見したことも、すぐ忘れてしまう。どうしたらいいんだろうなぁと考えたんだけれど、他のものごとの結びつけておけば忘れなくなるんじゃないかと考えた。

 

たとえば街で見知らぬ花を見かけたら、その花の原産地を調べ、原産地の主要産業を調べ…と情報を結びつけ、まとめておくと、知識が体系化されて自分の知肉になっていんじゃないかと思っている。

インプットの習慣化

現在のように情報量が多いと、情報を得ることがおっくうになる。フォアグラをつくるためにアヒルが大量の餌を胃にむりやりおくりこまれるように、ちょっと気持ち悪くなる。

とはいえ、情報をインプットすることはだいじなので、いま関心があることを能動的にとりにいく習慣をつけたいな、と思っている。そこで、アウトプットを習慣にすれば、自然とインプットも習慣化されるだろう、という思惑もちょっとある。

まとめ

そんなわけで、このブログは基本的に自分以外のだれかに読まれることを前提として書いていない「雑記帳」のようなもの。なにかのご縁でこのブログまでたどり着いた方がいたとしたら、誤字脱字や支離滅裂、読むに耐えないものになっているかもしれません。ごめんなさい。

 

とはいえ、それでもなにがしかだれかの役に立つことがあるのであれば、僕としてはとてもうれしい。