幸福度NO.1の国デンマークに学ぶ「hygge(ヒュッゲ)る」働き方
「hygge(ヒュッゲ)」という考え方を知っていますか?
「hygge」はデンマーク語で、「人と人とのふれあいから生まれる、温かな居心地のよい雰囲気」のこと。(参考:ヒュッゲ | ANDERSEN GROUP - アンデルセングループ
)なんだかすごく素敵な言葉ですよね。
僕は先日参加した仕事旅行社のイベント「世界で一番幸せな国デンマークに学ぶキャリアのつくり方」でこの言葉を知って、なにかすごく大事なことを知った気がしました。
北欧スタイルで働くあなた 世界で一番幸せな国デンマークに学ぶキャリアのつくり方【ワークショップ】|見たことない仕事、見に行こう。仕事旅行
「美しい働き方」が僕にとって長い事考えていることなのだけれど、そのヒントになるような気がしています。
幸福度NO.1の国、デンマークの働き方
デンマークは国民の幸福度がNO.1の国だそう。その要因としては、民主主義が発達していることや、格差が少ないこと、美意識がすみずみまで行き届いていること、ご飯が美味しいことなどたくさんあげられるのだろうけれど、仕事への満足度が高いことも大きいのでは。
ゲストのエコ・コンシャス・ジャパン代表、戸沼如恵(とぬま ゆきえ)さんによれば、デンマークの働き方は次のような特徴があるそうです。
- 転職市場が発達しており、転職しやすい
- 労働者の権利が守られている
- ブラック企業がない。悪い環境の会社はみんなやめてしまうので。
- 働くためにクリエイティブな空間が必要だという意識がある
- 絶対と言っていいほど残業しない。(労働時間は週37時間までと決められている)
- 国民一人当たりのGDPが日本よりもデンマークの方が高い
- オフをしっかりしている
- 上下の関係性がフラット
- 職場での対話を大事にする(空間的に関係性の曖昧な場所を中心に置くなどして、対話を促す場づくりをしている)
- キャリアで悩んだとき、「立ち止まってもいい」という考えが浸透している
…なんだかこれ、日本と真逆じゃないですか?
もちろんデンマークのやり方をそのまま日本に持ってきてもうまくいかないにせよ、学べる部分はたくさんあるように思います。
根っこにある考え方「hygge」とは
特に素晴らしいと思ったのは、「hygge(ヒュゲ)」という言葉。冒頭で紹介したように、デンマーク語で「人と人とのふれあいから生まれる、温かな居心地のよい雰囲気」のことだそう。
ただ戸沼さんいわく、日本語の「おもてなし」みたいに、デンマーク語以外ではちょうどいい訳語がないんだとのこと。だからなかなかスッキリ理解することは難しい。
たとえば「人と人とのふれあいから生まれる、温かな居心地のよい雰囲気」なんて言うと、「オンとオフ」のうち「オフ」みたいなイメージを持つのだけれど、実際には「オン」、つまり仕事をする時間でもこの「hygge」を大事にしているんだって。
そんな価値観を形に落とし込んだものが、デンマークのインテリア(特にやわらかい雰囲気の照明)なのだと聞くと、すごく納得できる。
たしかにこれまで「あぁ、しあわせだなぁ」と感じた瞬間を思い返してみると、「hyggeってる」ときが浮かんできます。一方で、日本では「hyggeってる」ことは「怠けている」と近いように捉えられ、仕事の時間からは取り除かれがちなのかもしれません。
では、一体どうしたら僕たちは、この日本で、仕事を通して「hyggeる」ことができるのか。このことについては、またじっくり考えてみたいと思います。
TWDW2016サテライトプログラム「卒東京のキャリア論 」モデレーターを務めました
【偉人に学ぶ働き方】渋沢栄一に学ぶ、”徹底して現実主義であること”
日々をすごすなかで、「この人のように生きれたら」という人物がいることは大きな指針になります。かつては船で航海するとき、北極星を見て位置や方向を確認していたといいますが、人生においてもなにか選択を迫られたとき、まるで航海者にとっての北極星のように、進むべき方向に導いてくれるのが、「この人のように生きれたら」という人物、つまりロールモデルとなる人物です。
渋沢栄一という人物
僕にとっても、ロールモデルとなる人物が何人かいます。その一人が、今回紹介する渋沢栄一という人物。教科書にも出てくるので、言わずと知れた…と言ってしまっていい人物かもしれませんね。「何をした人かわからない」という方も、その名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。
渋沢栄一(1840-1931)は、日本に「株式会社」というしくみを持ち込み、生涯に約500の企業の育成に関わった「日本資本主義の父」と呼ばれる人物。「道徳と経済はどちらが欠けてもいけない」という「道徳経済合一説」を唱え、約600の社会公共事業に関わりました。
今でこそ、企業のCSR、CSVなどの言葉が一般的になり、個人の働き方としても社会的な取り組みをすることが一つの選択肢になっていますが、少し前、とくに高度経済成長期には企業も個人も「お金を稼ぐこと」が大きな価値の基準だったかと思います。それが、日本に資本主義を取り入れた人物が、そもそも「経済と道徳(社会のために良いことをすること)は車の両輪で、どちらが欠けても持続できない」ということを言っていたのですから、その先見の明には驚かされます。
徹底した現実主義者
渋沢栄一という人物が為したことは、とうてい僕のような人物には真似できません。ただ、渋沢栄一をロールモデルとしたとき、なにか自分にも指針となるようなことが見えてきそうです。
いったいなぜ、渋沢栄一は100年後の未来でも通用するような考え方を、近代日本の黎明期に持つことができたのか。渋沢栄一に関するいくつかの文献を読むと、”徹底した現実主義者だったことが、その背景にあるんじゃないかと思うようになりました。
守屋淳は、渋沢栄一の人生は5つの異なるステージに分けられると述べています。
1.尊皇攘夷の志士として活躍した時期
2.一橋家の家来となった時期
3.幕臣としてフランスに渡った時期
4.明治政府の完了となった時期
5.実業人となった時期
さらにこれらの転身は、当時の「尊皇攘夷」「文明開化」「明治維新」「殖産興業」という大きな流れのなかでのことだったといいます。
特に劇的なのは、高崎城の焼き討ちという、現代でいえばテロにあたる計画を主導していた尊皇攘夷の志士であったのに、いち志士の力では時代は動かせないとみるや幕府側であった一橋家の家来となり、さらには討つべき相手であるはずの外国人が住む土地、ヨーロッパへ渡るまでに至る転身。一見すると一貫性がないように思えますが、”この国をいかによくするか””そのなかで自分の力をいかに発揮できるか”という点をつきつめ、時代の趨勢と照らし合わせて現実的は判断をした結果が、こうした転身に結びついていったのでしょう。
『論語と算盤』で語られた「道徳経済合一説」にしても、現実的な判断からみちびきだされています。この説は、「利益を追求するだけでなく、倫理的に良いことをしよう」といった感情的な呼びかけではありません。「社会がより良いものになるためには、経済が豊かになることが必要だ。一方で、経済が持続するためには倫理が必要だ」という、現実的な判断にもとづく考え方なのです。
「みんながこうしているから」は判断基準にならない
自分自身をかえりみてみると、つい感情的な判断をしがちです。特に多いが、「みんながこうしているから」という理由で判断すること。でも、「みんながこうしているから」というのは、その判断が間違っていたときの言い訳にはなっても、その判断か正しいかどうかとはあまり関係がありません。
生きていると、大きな判断に迫られる場面がやってきます。その時、「みんながこうしているから」ではなく、自分の意見とは反する情報まで徹底して集め、偏見を持たず、冷静に判断する。そのことが、人生を望む方向に進めるために大事なのだと、渋沢栄一の生き方は気づかせてくれます。
NPO職員はモテないのか
「NPO職員はモテないイメージがある」ということをFacebookで投稿したら、「そんなことないぜ」というコメントがありました。
「NPO職員だからモテない・評価されない」というではない
僕は「モテない」を「正しく評価されていない」という意味で使ったので、かなり誤解を生んだ部分もあると思います。ただ、いずれにせよ「NPO職員だからモテない・評価されない」ということではなさそう。だって、じっさいにNPOに勤めていても、きちんと評価を得て活躍している方もたくさんいるんですから。
肩書きに依存していないか
NPOに勤めていて、「自分の活動が、家族や友達にきちんと評価されていないな」と思ったとすると、それは”肩書き依存”しているのかもしれません。
つまり、自分を他人に売り込むときに、肩書きに頼ってしまう癖が抜けていない。とくに有名大学出身だったり、大企業経験者だと、その傾向が強くなるのかも。
例えばそれまでは、「○○大学の山中です」といえば「おお、なるほど!」といちおうの評価を得ることができていたのに、NPOに勤め始めると肩書きで評価を得るのが難しくなる。
まるで、水戸黄門が印籠をなくした途端に、誰からも敬われなくなるみたいに。(そんな話があったわけじゃないですが)
NPO職員にとって大切な”セルフブランディング”
NPOに限らず、一般的に知名度が高くない組織で働いていたり、あるいはフリーで働いていたりする場合には、”セルフブランディング”がとても重要になるのだろうな。
つまり、自分でやったこと、できることをきちんと伝えること。しっかりと結果を出していて、なおかつその結果を言語化して伝える言葉できれば、NPO職員だろうときちんと評価されるはずです。
「NPOはモテないや」じゃなくて、きちんと自分の評価は自分でつくる。組織に寄りかかれないぶん、試されてる感じがして、ちょっとわくわくしちゃうな。
【漫画から考えるしごと論】働くとは、人のために動くこと-『重版出来』-
自分はなぜはたらくのか。生活の糧を得るため、自己実現のため、誰かに認めてもらうため…答えは十人十色だと思います。
僕も大学次代からずっと、「なんではたらくんだろう」と考え続けてきました。そして、正直なところ、いまだに答えは出ません。
物語の内容
そんな「自分はなぜはたらくのか」を考えるうえで、とてもおもしろい漫画が『重版出来』です。
元柔道の選手で、勢いと笑顔と体力が武器の新人編集者・黒沢心の奮闘を描いたこの漫画では、1冊の単行本の誕生に関わる「作るひと」から「売るひと」までのドラマが描かれています。
出版業界が舞台ですが、仕事への向かい方、仲間とのコミュニケーションなど、出版業界以外ではたらく人にとっても多くのことを気づかせてくれる、とても魅力的な仕事漫画です。
働くとは、人のために動くこと
そのなかでも、とくに「いいなぁ」と思ったのは、「働くとは、人のために動くこと」という言葉。ちょっと手もとに漫画がないので(TSUTAYAに返してしまった…)正確な文言はこれで合っているか不安なのですが。
「働」という感じを分解すると、「人」と「動」に分けられる。「働」は日本で生まれた漢字で、「働くとは、人のために動くこと」という、日本人の価値観がよくあらわれている…と、そんなふうなことが語られる場面があります。
お金を稼ぐため、誰かに認められるため、社会を変えるためといったように、はたらくことに対する意味合いは人それぞれですが、よく考えると、どれも「人のために動くこと」に他ならないんですよね。その「人」が、自分だったり、恋人だったり、遠い国の子どもたちだったりするだけで、きっと「人のために動く」ということは変わりないのかもしれません。
自分は誰のために動く?
そう考えると、「自分はなぜはたらくのか」という問いは、「自分はだれのために動くのか」と言い換えることができるでしょう。
僕はいまは、「家族のため」と答えます。でも、これから変わっていくかもしれません。さてみなさんは、「だれのために動く」と答えるでしょうか。
【雑記帳】キャリアって、物語なのかもしれない
もともとしがない編集者をやっていた僕が、いまではキャリアコンサルタントを目指しています。編集者とキャリアコンサルタント。一見するとまったく違うように思えますね。でも、僕のなかでこれらを仕事にした背景にあった価値観はおなじでした。
それは、”ひとが物語るお手伝いをする”ということ。
編集者のときは、インタビュー相手の語りを引き出すこと、その人自身すら気づいていない、その人にしかない物語を紡ぎだすことが、大事な仕事のひとつで。編集者の仕事はほかにもたくさんあるんだけど、働いていくなかで「あぁ、僕がいちばん楽しいと思えるのは、”ひとが物語るお手伝いをする”ことだな」と思うようになりました。
じゃあ、もっと”ひとが物語るお手伝いをする”ことができる仕事ってないものか。そうして出会ったのが「キャリアコンサルタント」という仕事だったんです。
自分という主人公が、いろんな人と出会い、困難に直面して挫折しながらも、乗り越えて成長していく…。キャリアって、”物語”に他ならないですよね。そして、脚本を描くのも、主役を演じるのも自分。そういう意味では、だれもが人生という物語の主演・脚本を担っているんです。
『ロッキー』のシルベスター・スタローンじゃないのだから、それはとても難しい作業に違いありません。だから、ひとりひとりが自分の物語をつくりあげていくお手伝いをする役割が求められています。それが「キャリアコンサルタント」です。
小説家の小川洋子さんは「生きることは物語ること」と言っています。言い換えるなら、だれもが物語をつくることによって、自分の人生を意味付けている。逆に言えば、いい物語をつくれないと、自分の人生の意味を見失ったり、「なんで自分だけこんな人生なんだろう」みたいな、暗い気持ちで生きて行くことになってしまうかもしれません。
だから、個人が素晴らしい”物語=キャリア”をつくっていくお手伝いをする「キャリアコンサルタント」は大切で、とてもやりがいのある職業だな、と僕は思っているのです。
とはいえまだなっていないので、悪いところは見えていないんですけどね。”ひとが物語るお手伝いをする”という価値観は、これからもあまり変わらないように思います。
【映画から考えるしごと論】社会的活動は和を乱す?-『スポットライト 世紀のスクープ』-
「社会的活動」と聞くと、なにやらいいことをしているような印象を持つでしょう。でも、ときには社会的活動だと思えるような取り組みが、周囲の人からの批判にさらされることも。
映画『Spotlight』では、そんな「社会的な活動なのに、批判をあびてしまう」ジレンマが描かれています。
物語の内容
2002年、アメリカの新聞「ボストン・グローブ」が、「SPOTLIGHT」と名の付いた新聞一面に、衝撃的な記事を掲載しました。ボストンの多くの神父によって子どもたちへの性的虐待が行われ、カトリック教会がその事実を知りながらも隠蔽していたというのです。映画ではひとびとに衝撃を与えたこのスキャンダルの背景に会った、ジャーナリストたちの戦いが描かれています。
とくに興味深かったのは、ジャーナリストたちが真実に近づきつつある終盤、教会のみならず友人や同じ地域に住む住人たちからも、「深入りするな」「記事を掲載するな」と圧力をかけられる場面。正義感にのっとって真実を追いかけるジャーナリストに対し、「社会の調和を乱さないでくれ」といったような批判が投げかけられるのです。
社会的活動は同調圧力にさらされる
「社会的活動」とは、とてもあいまいな言葉ですが、多かれ少なかれそれまでの社会のあり方やルールを変えることをめざしています。そのルールの背景にとても大きな権力が潜んでいたり、そのあり方がコミュニティにしっかり根付いていたりしたときに、社会的活動は「和をみだすな」という圧力にさらされるのでしょう。
的外れな批判を笑い飛ばせるか
ドラスティックに社会を変えようと思ったら、一緒に戦う仲間を見つけたり、批判を受け流せるくらいタフになるなどして、同調圧力をはねのけることが必要です。以前会ったことがある社会起業家は「的外れな批判は、仲間たちとの笑い話の種にしていますよ」と言っていました。なんてタフなんだろう。
僕は正直、そこまでのタフさはなさそうです。さて、みなさんはいかがですか?