キャリアの物語をつむぐ

働きかた編集者 山中康司のブログ

会社にとっていちばん大切なこととは?-『日本でいちばん大切にしたい会社』坂本光司-

もう5年以上も前のこと。合同説明会の雰囲気に圧倒されてしまって以来、「おれにはこんな風にうまく立ち回れないや…」と落ち込んで、気づいたら就職をせずに大学を卒業してしまっていました。

 

それから半年、心身ともにあまり調子が良くなく、ニートのような生活をしたのですが、いやぁ、あれはつらかった。

 

同級生はみんな大企業でガシガシ働いているであろう時間に家で寝っ転がりながら昼ドラを観ていると、たまらなく情けない気持ちになるんです。「おれ、本当に生きてる価値ないじゃん…」って。

 

ご飯が食べれないことも、清潔な家に住めないこともつらいと思うけど、「誰からも必要とされない」ってことのつらさも、それはそれは結構なものです。

 

会社にとって、社員やその家族の幸福が第一である

 

そんなことを思い出したのは、『日本でいちばん大切にしたい会社』を読んだから。

2008年に発売され、全国の知られざるホワイト企業(って言っちゃうと、ちょっと軽くなってしまうのだけど)を紹介して話題となった本です。

 

 

著者の坂本光司さんは、会社の経営を「5人に対する使命と責任を果たすこと」と定義しています。

 

5人とは、

  • 「社員とその家族」
  • 「下請けや外注先の社員」
  • 「顧客」
  • 「地域社会の人びと」
  • 「株主」

のこと。

 

この順番は、会社が大切にすべき優先順位です。つまり、会社にとって社員やその家族の幸福が第一であると。社員やその家族の幸福のためにこそ、経営者は会社を継続させることが重要だと言っています。

 

一般的に、「会社は株主のものである」「お客様が神様だ」といったように言われるので、この考え方は当時とても斬新で、世の中にインパクトを与えました。 

 

「”生きる”とは、必要とされて働き、それによって自分で稼いで自立すること」

 

僕はこの本を電車で読みながら、泣きそうになっちゃって「やばいやばい!」と本を閉じることが何度もありました。

 

とくに、チョークの製造を主に行い、全従業員81人のうち60人が知的障がい者、そのうち27人が重度の障がい者だという日本理化学工業の会長・大山泰弘さんが、50年間障がい者の方を積極的に雇用し続けていることの背景にある、次のような気付きはガツンときました。

 

「人間にとって”生きる”とは、必要とされて働き、それによって自分で稼いで自立することなんだ」

「それなら、そういう場を提供することこそ、会社にできることなのではないか。」

(引用:『日本でいちばん大切にしたい会社』51頁)

 

思えばニートだった頃の僕のつらさは、「必要とされて働き、それによって自分で稼いで自立」することができなかったつらさでした。

 

「怠けていただけだろう」という方もいるかもしれません。でも、当時はどうしても働くことができなかったのです。そして、働きたくても働けないことは本当につらかった。「自分がいなくなっても誰も困らないよなぁ」と思ってしまうんです。

 

会社は、”人が生きる場所”

 

働くことが生きることだとすれば、会社は”人が生きる場所”。

 

過労によって人が死んでしまったり、精神を病んでしまったりする人がいる会社は、”人が生きる場所”となることができていないんだろうなぁと思います。

 

別の視点で考えてみると、以前のエントリーで「分断を生むキャリアからつながりを生むキャリアへ」と書きましたが、いい会社というのは人と人、人と社会とのつながりを生む。いい会社とは言えない会社は、人と人、人と社会を分断してしまうのかもしれません。

 

 「hygge」な会社はどこにある? 

 

そういえば、デンマークでは「人と人とのふれあいから生まれる、温かな居心地のよい雰囲気」という意味の「hygge(ヒュッゲ)」という状態を、職場でも大事にしているそう。北欧のオフィスで空間デザインが素敵なのも、「hygge」を大事にしているからだとのことです。

 

kjymnk.hatenablog.com

 

「hygge」な会社は、まさに”人が生きる場所”なのでしょう。

 

日本で「hygge」な会社はどこがあるだろう。どこかご存知のところがあれば、ぜひぜひ教えてください。

非プロフェッショナルの流儀-『私の個人主義』夏目漱石-

ちょっと前のエントリーで、「僕は、プロフェッショナルにはなれないと気づいた」と書きました。

 

kjymnk.hatenablog.com

 

実際のところ、プロフェッショナルと呼べる人たちはひと握り。でも、だからといってプロフェッショナルになれない人間が不幸かといったら、そんなことないはずです。

 

もし「非プロフェッショナルの流儀」といえるようなものがあるとしたら、どのようなものなんだろうなーと考えるなかで、実は今から100年以上前の明治44年に、夏目漱石がヒントになるような講演録がありました。『私の個人主義』に収められている「道楽と職業」というものです。

 

分業が人間を不完全にする?

 

明治44年、時は文明開化のまっさかり。漱石は「職業は開化が進むについて非常に多なっていることが驚くばかり眼につく」と書いています。(『私の個人主義』16頁)

 

江戸時代までの日本では、たとえばお百姓が農業もやれば商売もやる、といったようにあまり職業が分かれていなかったのだけれど、明治になり近代化が進むにつれて、どんどん仕事の分業が進んで、職業が増えていったのですね。

 

そうした状況に対して、漱石は悲観的です。

 

こういうように人間が千筋も万筋もある職業線の上のただ一線しか往来しないで済むようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切り詰められるので、恰も自ら好んで不具(原文ママ)になると同じ結果だから、大きくいえば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者原文ママに打開しつつ進むのだと評しても差支えないのであります。(『私の個人主義』23-24頁

 

あらら、漱石さん、だいぶ大胆なことを言っちゃっています。「ひとつの仕事を特化してやっていると、人間は不完全になってしまう」と。

 

少しわかりにくいので補足をすると。

 

それまではたとえば自分が食べるものは自分で野菜から収穫したり、鶏を絞めたりして手に入れ、自分で掘った井戸で汲んだ水を汲み、服も、自分で織ったり繕ったりしたものを着ていた。だから、生きるための知恵をひとりひとりが持っていたし、誰かに依存することなく生きることができた。

 

でも分業が進んで、「おれはこれが得意だからこれをやる。その代わりあんたはこれをやってくれ」って分業が進んでいくと、自分が口に入れているものがどこでどうつくられたものなのかもわからなくなってくる。生きるための知恵が、自分が専門とすること意外わからなくなってしまう。だから、誰かに頼ることなしには生きることができなくなってしまう。

 

さらには、自分の専門のこと以外に関心がなくなって、お互い理解しようとすることがなくなり、孤立してしまう。

 

そういった状況を指して、漱石は「不完全な人間」といい、「それじゃ味気ないじゃん」と言っているのです。

 

漱石がこの講演を行ったのは今から100年以上前ですが、その指摘は驚くほど現代にもあてはまります。おそらく、高度経済成長期でさらに分業は加速して、今に至っているのではないでしょうか。

 

分業社会への反動としての「ナリワイ」

 

ただ、2010年代に入ってから、そうした状況への反動のようなとりくみも生まれています。それが、「ナリワイ」をつくることです。

 

「ナリワイ」づくりのとりくみの先駆けとなった伊藤洋志さんによれば、「ナリワイ」とは「個人で元手が少なく多少の特訓ではじめられて、やればやるほど頭と体が鍛えられて技が身につき、ついでに仲間が増える仕事のこと」。(引用:人生を盗まれない働き方 | ナリワイをつくる

 

たとえば農家の手伝いをしたり、宿をやったり、イベントを開いたり…といった比較的規模の小さな仕事であり、そうした仕事を組み合わせる生き方でもあります。

 

伊藤さんがナリワイを始めた背景にも、漱石と同じような問題意識があったようです。

 

1個の組織で1つの仕事を毎日決まった時間に行う、という生活は人類の歴史では異常なことなので、合わない人がけっこういてもおかしくない。

そこでナリワイは、そもそもライフとワークのバランスを考えるのではなく、生活から乖離してしまった仕事を個々人の手の届く範囲のほどほどの距離に近づけることを目指しています。いうなれば生活と仕事の一体化です。(引用:人生を盗まれない働き方 | ナリワイをつくる

 

生活から乖離してしまった仕事を個々人の手の届く範囲のほどほどの距離に近づける」とは、漱石の言葉で言えば「完全な人間」にもう一度近づく、ということでしょう。

 

あるいはナリワイではなくとも、今注目されている「副業・兼業」も、分業社会への反動としてみることもできるかもしれません。

 

プロジェクトx』『プロフェッショナル』の時代を超えて

 

組織として何か大きな仕事を成し遂げる『プロジェクトx』がみんなの憧れだった時代から、個人がある分野に特化して一流になる『プロフェッショナル』がみんなの憧れだった時代になり、さらに今はそうした時代への反動から、「ナリワイ」や「副業・兼業」も生き方としていいよね!という時代になってきているような肌感覚は、たしかにあります。

 

ひとつの職業、ひとつの会社に縛られてしまうことの問題を、100年前に見事に見抜いていた漱石さんは、やっぱりすごい。もっとも、近代になって進んだ分業の意義と課題については、社会学者エミール・デュルケムが1893年に『社会分業論』で論じています。漱石もその影響を受けているのかもしれません。

 

もし漱石さんが生きていたら、今みたいな時代をどうを評するんでしょうか。

 

 

 

境界ないキャリアを支える、「流動創生」というコンセプト

人口減少が進み、全国区の自治体で移住者を呼び込む取り組みが盛んに行われています。そんななか、必ずしも移住を前提とせず、流動人口(一時的にある場所に滞在している人口のこと)を増やすことにより、一人ひとりが最大の価値を生み出すような地域の取り組みがあります。

 

それが、福井県南越前町で取り組まれている「流動創生」の取り組み。そんなユニークな取り組みについてのトークイベントが都内で開催されるというので、足を運んでみました。

ryudou-sousei.jp

 

流動創生とは

 

流動創生とは、どういうことなのでしょうか。

サイトでは、次のように説明されています。

 

 これからの時代に、本当に価値あることを、本当に価値となる場所で生み出していくためには、常識や固定観念に左右されず、一人ひとりがすべきこと・いるべき場所・あるべき姿を求めて縦横無尽に動くこと、そしてそれを可能とする「流動性の高い環境」が必要です。


流動創生は、組織や個人の流動性を高めることにより、一人ひとりが最大の価値を生み出すことのできる「一億総適材適所」社会を目指します。 

(引用:About - 流動創生? - | 流動創生

 

日本全体で人口が減っているなか、各地域が移住者の奪い合いをすることは、どこかが生き残ってどこかが衰退してしまうことにつながります。一方で、流動人口を増やすことができれば、人口の奪い合いになることなく、さらにはそれまで地域内にはなかった新しい視点が地域に持ち込まれるというメリットもあります。

 

また、個人としても、価値観が多様化している今、一つの地域にとらわれない生き方をしたいという方も増えているでしょう。

 

「流動創生」はそうした時流を捉えた取り組みで、具体的には「StopOver」と、「RoundTrip」という取り組みをしているそう。

 

「StopOver」は、次のようなもの。

 

福井県南越前町流動創生拠点に滞在して地域の人々の暮らしや生業に寄り添い、地方を絡めた多拠点のあり方について具体的に理解を深めながら、「風の人」と「土の人」のギブアンドテイク構築を学ぶ合宿企画

(引用:About - 流動創生? - | 流動創生) 

 

RoundTrip」は、次のようなものだそう。(『あいのり』のラブワゴンみたいなイメージ)

 

全国各地を巡って地域の人々の暮らしや生業に触れ、地方を含む多拠点を俯瞰的にとらえながら、「風の人」としてのスキルを習得し、自分にあった「流動的なライフスタイル」を模索する旅の企画です。

(引用:About - 流動創生? - | 流動創生

 

こうした取り組みを通じて、地域間を移動する「風の人」がもたらす情報や技術が、地域に定住している「土の人」の力と結びつき、まったく新しい価値を生み出すことがあると、流動創生の仕掛け人で荒木幸子さんは語ります。(「風の人」と「土の人」という表現がすごくいい!)

 

境界なく生きる時代

 

キャリア論では、「バウンダリーレス・キャリア」と呼ばれるような、企業や職種、業界などを超えた、「境界(バウンダリー)」のない生き方・働き方が一般的になっていると言われます。

 

流動創生の取り組みも、そうした文脈のなかに位置付けられるでしょう。企業や職種、業界などを境界なくわたり歩くことが可能になるからこそ、働く場所・住む場所についても境界なく流動しながら生きることができるようになってきた。

 

そういう意味では、人口の流動を促す流動創生の取り組みは、南越前町だけでなくこれから他の地域にも広がっていくのではないでしょうか。

 

 

続・NPO職員は食べていけるか

先日の「NPO職員は食べていけるか」というエントリーをFacebookでシェアしたところ、思いがけずたくさんの反響がありました。

 

kjymnk.hatenablog.com

 

どの意見も、なるほどなぁというものばかりだったので、簡単にまとめてます。

 

まず、多かったのは「食べていけるか、という問いには、組織に食べさせてもらえるという意識が含まれている。でも、いまやNPOだろうと営利企業だろうと、自分が食べていくためにどうするかを考えるのが不可欠。」という意見。

 

たしかに大企業だろうと安泰ではないいま、どう稼いで生きていくのかはだれもが考えるべきことになっています。それはNPO職員もおなじこと、というのはすごく納得。

 

ほかには、「"食べていく=稼ぐ"ではないんじゃないか。ひたすら稼がなくても、食べていける方法もある」という意見も。

 

これは、自給自足だったりコミュニティのあいだの物々交換だったり、かならずしも貨幣経済によりかからなくても食べていくこともできるのでは、ということだと思います。

 

とくにローカルでは、ご近所さんから食料をもらえるから食費がほとんどかからない、なんてことも聞くことがあります。文字どおり"食べていく"ことがそれほどのお金なしに実現できているのかもしれません。

 

あとは、ストレートに「NPOだけど食べていけてるよ」とか、「NPOだから稼がなくていい、ではなく、ちゃんと稼がないと」というコメントも。

 

やはりけっこう「NPOってボランティアでしょ」ってイメージは根強いようにおもうのですが、実際にはそれなりに稼げるところはあるし、事業を継続するためにも稼がないといけない。「NPO=ボランティア」というイメージは、NPOにかかわる僕らのような人間がちゃんと変えていかないといけないな、と思います。

 

 

最後に、興味深いデータも。「カイシャの評判」によると、NPO法人の平均年収は250〜350万がボリュームゾーンだとのことです。これを多いとみるか、少ないとみるかはその人しだいでしょう。

 

 

以上、NPO職員は食べていけるか」というエントリーへの反響をいくつかピックアップしてまとめてみました。もしNPOに関わるキャリアを考えている方は、ひとつの参考にしてみてはいかがでしょうか。

 

夢がなくても幸せになれる?-『夢があふれる社会に希望はあるか』児美川孝一郎-

ちょっと前の話ですが、結構メディアにもとりあげられている、ある分野でプロフェッショナルといっていいような方の口から、「まぁ、私もやりたいことなんて特にないですからね」という言葉がでたのでびっくりしたことがありました。

 

若くてなにもキャリアを積んでいない人がいうのなら、驚くこともないのだけれど、社会的な評価も高くて、これまで輝かしい実績も上げてきている方でも、「やりたいことが特にない」、というのがすごく意外で。

 

ただ、文脈を抜きに「やりたいことなんて特にないですからね」と聞くと、なんだかネガティブにしか聞こえないですが、その時はネガティブなひびきはなかった。(文脈を忘れてしまったのが残念ですが。)むしろ、もっとポジティブで大切な含みをその言葉に込めているように感じました。

 

これは僕の想像ですが、その方が言ったやりたいことが特にない」というのは、いわゆる”夢”や”ビジョン”といった大それたものは特段もっていないですよ、ということなんじゃないかな。”夢”や”ビジョン”は持っていないけど、もっと短いスパンで小さな規模のやりたいことはあって、そうしたことの積み重ねで今があるんですよ、ということが言いたかったんじゃないか、と思っています。

 

”夢”にかんして、最近読んだのが『夢があふれる社会に希望はあるか』という本。書いたのは法政大学キャリアデザイン学部の児美川孝一郎教授です。

 

 

児美川教授は、いまは「夢をあおる社会」だと言います。メディアでは、夢を実現した経営者やスポーツ選手のストーリーがとてもかっこよく描き出され、教育現場でも「将来の夢はなにか」と繰り返し問われる。僕も『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見て、「自分もいつかプロフェッショナルになりたい!」と思っていたことがあります。

 

でも、実際に本田圭佑さんみたいになれるひとはひと握りなのだから、「本田さんは夢に向かって一直線に進んでいるのに、僕ときたらブログも続きやしない」なんて自分を責めることはないのです。(いや、それはちょっと違うか。)

 

なにせ、夢を実現した人は2割くらいしかいないそうなんですね。のこりの1割くらいの人は、夢を実現できなかったり、夢の仕事に就けてもやめてしまっていたりする。じゃあそのひとたちが不幸かというと、そんなことない。めぐりあった仕事で、意外な楽しみを見つけて幸せに生きていたりします。

 

児美川教授が本の中で言っているように、”夢”というのはマジックワードで、人のモチベーションを高めることもあれば、限られた選択肢に縛り付けたり、「夢を持たなきゃ」というプレッシャーとして僕たちにのしかかることもあります。

 

だから、かならずしも”夢”を持てなくても、焦ったり自分を責めたりする必要はないんですよね。ましてや、「”夢”を持て!」って誰かに押し付けられるものでもない。「私もやりたいことなんて特にないですからね」と言った方は、誰にこうしろと言われるでもなく、自分の人生を生きていて、幸せそうに僕には見えました。

 

今回ご紹介した『夢があふれる社会に希望はあるか』の中では、夢との付き合い方の述べられています。夢とキャリアの関係に興味がある方は、ぜひ手に取ってみてください。

 

 

 

 

 

モモは世界一有名なキャリアカウンセラーかもしれない-『モモ』ミヒャエル・エンデ-

小さなモモにできたこと。それはほかでもありません。あいての話を聞くことでした。

『モモ』ミヒャエル・エンデ 

 

キャリアカウンセリングの勉強をはじめて1年ほどになる。

 

学べば学ぶほど、奥が深い。カウンセリングをするたびに発見ばかりだ。講師の先生いわく、「15年やってやっとつかめてきた」とのことなので、1年なんてまだ赤ちゃんみたいなものなんだろうな。

 

*****

 

勉強を始める前、「自分は聞き上手かもしれないだな」と思っていた。じっさいに「聞き上手だね」と言われることもあった。

 

でも今思うのは、「聞き上手」と「カウンセリングができる」は、まったく違うということ。たとえるなら、リフティングが上手にできるのと、じっさいに試合でゴールを決めることができること、くらい違う。

 

「聞き上手」は、聞き役にまわったり、あいての話に合わせてあいづちをうったりすることが得意ならなれるかもしれない。でも、「カウンセリングができる」というのは、それとはまったく違うスキルが必要だ。

 

くわしいことはここでは書かないけども、クライエントを観察し、要約やいいかえを織り交ぜ、感情や意味づけを引き出し、時には自分の中の矛盾との対決をうながし、云々…。そんなことを頭でぐるぐる考えつつ、でも目の前の相手に集中して話を聞く。(プロのカウンセラーは、1時間ほどのカウンセリングでも内容をほぼ覚えているというからすごい。)

 

そんなわけで、「俺って聞き上手だな〜」と調子に乗っていたかつての自分には、強烈な張り手を食らわせたい。

 

*****

 

ところで、世界で一番有名なキャリアカウンセラーは「モモ」じゃないかと思う。

 

この、ミヒャエル・エンデが書いた世界的ベストセラーの主人公がやっていたことは、まさにキャリアカウンセリングなのだ。

 

物語では、平和な街に突如現れた「時間貯蓄銀行(時間どろぼう)」と称する灰色の男たちによって、大人も子ども”時間”を盗まれて、自分らしく生き生きと過ごすことができなくなり、心から余裕がなくなってしまう。

 

そんなに時間どろぼうに立ち向かったモモができたことというのが、”話を聞くこと”だった。

 

なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。

でも、それはまちがいです。ほんとうに聞くことのできるひとは、めったにいないものです。

そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです。

(引用:『モモ』ミヒャエル・エンデ 岩波少年文庫 23頁)

 

「時間どろぼう」と対極にいるモモができることが、「話を聞くこと」だというのは、とても示唆的だ。いわば「時間どろぼう」が人びとから生き生きとした時間を奪うのに対して、モモは生き生きとした時間を与える。いや、与えるというとちょっと違うな。生き生きとした時間をとりもどすことに、そっと寄り添っているのだ。相手の話に、じっと耳を傾けることによって。

 

******

 

今、僕たちのまわりを見ても、電通過労自殺が問題になったように、「時間どろぼう」に時間を奪われたような働き方をしている方は多い。

 

だからこそ、「聞き上手」だけではなくカウンセリングができる」キャリアカウンセラーという存在が、もっと身近になればいいのに、と思う。残念ながら、僕らが生きる世界にモモはいないけれど。

 

そんなわけで、僕は今日もキャリアカウンセリングを勉強する。

 

NPO職員は食べていけるか

今日大手企業の採用面接が解禁になった。

でも最近では、大手企業ではなくNPOに関心を持ってる学生も結構いるみたいだ。学生と話させてもらうと、「NPOで働くことに興味があるけど、食べていけるんですか?」って聞かれることが多かったりする。

聞いてくれる方は直接説明できるからいいのだけど、その背景には、聞くまでもなく「食べてけないでしょ」って諦めちゃってる方がたくさんいるのかもしれないな、とおもう。

別にNPOが無条件にいいとは思わない(たとえば社会貢献したいからNPO、と思っているのだとすると、その動機はもうちょい深掘りしたい。営利企業でも公的機関でも、はたまたプロボノでも社会貢献はできるので、NPO常勤にとらわれる必要ないかも)けれど、かといって"NPOは食べてけないから"という理由で選択肢からはずしちゃう人がたくさんいるとしたら、もったいない。

NPOの平均年収のデータが手もとにあるわけじゃないので一般化はできないけど、"食べていけてる"NPO職員はたくさん知ってる。

それに、僕の場合NPOに入って実感したのは、お金という意味での資本ではなく、人とのつながりとしての資本、いわゆる社会関係資本はたまりやすいなと。共感によってさまざまな人が集まってくるので。

自分が病気になったときや仕事がなくなったとき、たすけになるのはそうしたつながり。いやさそんなピンチなときに限らず、仕事の機会や出会いをもたらしてくれるのは人とのつながりだったりする。

そういった意味では、"NPOで食べていけるか"という問いに対しては、YesともNoとも断定はできないのだけど、「収入という意味ではもしかしたら一般企業よりは下がるかもしれないけど、その年齢の平均年収くらいは稼げるところもちゃんとある。それに、社会関係資本を得やすいから、お金以外のセーフティネットをつくることができるかもしれないですよ」って答えてる。(かもしれない、というのは、あくまでも僕の実感なのでみんなそうなのかはわからない、ということで)

繰り返しになるけれど、だからNPOでいいのだ!ってことではなく、まずは「食べていく」ってことが自分にとってはどれくらいの収入が必要なのか、社会貢献をしたいという気持ちの背景にはどんな価値観があるのか、それはプロボノや副業、あるいは企業のCSR担当でもできることなのかなど、自己理解を深めることがまずは大事なんじゃないかな、とおもう。

また、これまでの議論とあまり関係がないけど、就活っていうシステムを通して病んでしまう人が(自分を含めて)まわりに何人かいた。そういう人が少しでも減るように、「新卒で東京の大企業に正社員で入る以外の選択肢もあるよ」ということを伝えたり、体現していけたらいいな、なんて思う今日このごろ。