「○○したら人生変わった」と言いたいボーイ
ねがわくば、もっと思いやりのある人間になりたい。
もっと一つの物事を突き詰められる人間になりたいし、凶悪な敵をまなざしだけで圧倒する、そんなたくましい人間になりたい。
そんなことを、20歳過ぎたくらいから思い続けてきてる。
思い続けて、海外を旅してみたり、名作と言われる映画を見たり、本を読んだり、相田みつをミュージアムで名言に触れてみたり。
が、結局どの人間にもなれずに28歳になってしまったよ。
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「世界一周をしようと、映画を100本観ようと、偉人の名言に触れようと、自分を変えられない人は変えられねんだなぁ。人間だもの」。なんてつぶやいてみたくもなる。そんな簡単に人が変われるなら、自己啓発本は今みたいに売れたりしないはずだもの。
でも、なかには何気ない出来事から啓示のようなものを得て、自分を変えらる人もいるらしいのだ。
嘘か本当か、村上春樹は、こう言っていた。
小説を書こうと思い立った日時はピンポイントで特定できる。1978年4月1日の午後一時半前後だ。その日、神宮球場の外野席で一人でビールを飲みながら野球を観戦していた。(中略)そしてその回の裏、先頭バッターのデイブ・ヒルトン(アメリカから来たばかりの新顔の若い内野手だ)がレフト線にヒットを打った。バットが速球をジャストミートする鋭い音が球場に響きわたった。ヒルトンは素速く一塁ベースをまわり、易々と二塁へと到達した。僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだ。
(引用:『走ることについて語るときに僕の語ること』文春文庫、49-50頁)
僕はといえば、2015年6月7日神宮球場で開催されたヤクルト対ロッテ戦の左翼席にいた。7回裏3対3・1アウト満塁の場面で、ミッチ・デニング(オーストラリアから来た僕と同い年の外野手だ)が放った右翼席中段への満塁ホームランを外野席から見ていて、「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立った--。
なんてことはなかった。
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変わる人、変わらない人。その違いはなんなのだろう。
思うに、小さい頃は、すべての出来事が新鮮で、新しい気づきばかりだった。まるで真っ白いキャンパスの上に絵の具で描かれていくように、あらゆる経験が「自分の人生はこのようなものだ」という世界観を塗り替える色彩を持っていたのだ。
けれど、28歳になった今、もうそうはいかない。何か新しい経験をしても、これまでのさまざまな経験から得たものごとのとらえ方の枠のなかで見てしまうから、自分を変えるような新しい発見になりづらいんだな、たぶん。
絵のたとえでいえば、自分のキャンパスに描かれた「自分の人生はこのようなものだ」という世界観は、これまでのさまざまな経験によって塗り固められてしまって、上書きするのは簡単じゃないのだ。
それでも変わりたいと思ったら、塗り固められた世界観をリセットしなきゃいけない。そう、もう一度赤ちゃんとして生まれ変わって、本や映画や知らない土地やデニングのホームランと出会ってみたら、「自分の人生はこのようなものだ」という世界観は塗り替えられるかもしれない。
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じゃあ、どうしたら世界観をリセットできるのか。
まだ「これ!」といった方法は見つかっていないのだけれど、とりあえず、合言葉を持つことにした。自分がものごとを枠にはめてとらえてしまっているなと感じたら、「エポケー」と唱えてみるのだ。
「エポケー(epokhe)」とは、判断停止、判断保留といった意味で、ドイツ出身の哲学者エトムント・フッサールが、純粋な事象そのものへ至るために素朴な自然的態度を……とか難しいことはこの際あんまり大事じゃない。
要は「ものごとの判断を括弧に入れる」といった意味で、大事なのはなにか新しいものごとと出会った時、凝り固まった見方をしてしまっているなと感じたら「いっけね!エポケーエポケー」と唱えることで、まっさらな気持ちで向き合うことを意識できるようになることだ。
だから別に「エポケー」じゃなくてもいい。「アッチョンブリケ」でも「うんこ」でもいい。(いずれにせよ、声に出すのはオススメできないです)
しばらく、この「エポケー」を試してみようと思う。いきなりスンバラシイ人間に買われたりはしないまでも、毎日を新鮮な気持ちで過ごせるようになったらいいな。
季節の移り変わりをしっかり感じとれるとかね。
そういえばデニングはその後、四国アイランドリーグでプレーした後、2016年7月に退団した。今頃どこで何をしているんだろうか。
フリーランスになって、”人生に問われる”ようになった話
そもそも
我々が人生の意味を
問うてはいけません。我々は人生に
問われている立場であり我々が人生の答えを
出さなければならないのです。
僕たち人間は、人生から意味を問われているのだ--。オーストリアの精神医学者、ヴィクトール・E・フランクルはそう語りました。
フリーランスになって1ヶ月ほど。僕が最近感じているのは、「フリーランスは、問われる存在なのだ」ってことです。
「お前は何者なのだ」と。「お前の人生の意味はなんなのだ」「お前はまわりにどんな価値を与えることができるんだ」と、問われるんですね。人生から。
肩書きは、印籠のようなもの
たとえば、僕は大学院は東大に行っていたので、当時は「東大生なんですよね〜」といえば「え、ほんとですか!?」っていう反応があって、「いやいや、たいしたことないんですけどねぇ」とか言いながら、ちょっと鼻高々で、まんざらでもない気持ちでした。いやはや、みっともない話ですが。
だから「自分は何者なのか」なんて、考える必要なかったんですね。東大生っていう肩書きでもって、自分のアイデンティティがまもられていたんです。
そう、当時の僕にとって東大生という肩書きは、水戸黄門の印籠みたいなもの。その印籠を見せれば、周りは「あぁ、東大生の山中くんね」と納得してくれる。たとえ自分の中身が空っぽだったとしても、です。
フリーランスになって、人生に問われるようになった
が、フリーランスはそうはいかない。印籠のなくした黄門様を想像してください。「ひかえおろう!ひかえおろう!」って言われても、「なんでこんなニセモノかもわからん爺さんに頭を下げなきゃいかんのか、さっぱりわからん」ってなりますよね。
今の僕はそんな、印籠のない黄門様になった気分なんです。誰もが納得してくれるような”印籠的肩書き”は、僕にはもうない。自己紹介で「フリーランスで編集者をやってる山中です。」と言っても、「あぁ、そうなんですか…」で終わってしまう。
そんなふうに、寄りかかれる肩書きがなくなったとき、「自分って、何者なんだろう」「自分の人生って、どんな意味があるのだろう」って、考えるようになったんです。
フランクル的に言えば、「人生が自分に問いかけている」ということですね。
それに、フリーランスは選択の連続。もし会社員であれば、朝何時に出社して、どんな仕事をして、お給料はいくらで、何時まで働いて…など、ある程度会社側が決めてくれます。極端な話、自分は決めてもらえるのを待っていればいい。楽チンです。
それがフリーランスになると、それこそ今日何時から仕事を始めるのか、どこで仕事をするのか、この仕事でいくらいただくのか、誰と働くのか…あらゆる場面で選択が必要になります。そうすると、「自分は何者なのか」「人生の意味はなんなのか」を問わないことには選択ができないんですよね。シンプルな例で言えば、自分は「ワーク」を大事にする人間なのか、「ライフ」を大事にする人間なのかで、朝起きる時間から付き合う人から引き受ける仕事まで違ってくるはず。
だから、何度も何度も選択をするたびに、「自分は何者なのか」「人生の意味はなんなのか」と問われている気分なんです。
「自分の人生のハンドルを自分で握ってる」感
人生から問われることが嫌かといったら、まぁ確かに大変です。人生の意味なんて言ったら大したものに聞こえるけど、人生を貫く意味なんてそうそう見つかりっこないし。「今はこれかなー」みたいな、現時点での答えのようなものを見つけていく作業の繰り返しです。
それは確かに大変なのだけど、生きてる実感みたいなものは社員だった時よりあるかもしれない。なんというか、「自分の人生のハンドルを自分で握ってる」感、とでも言いましょうか。
逆にもし、なーんにも問われないまま、スーっと人生を滑るように生きていった先に待っている景色は、あんまり面白いものじゃないんじゃないかな。
問われて、考えて、問われて、考えて…その繰り返しの中で、100歳で息をひきとる瞬間に「そうか!俺の人生の意味ってこれだったんだ!」ってわかるのかもしれないし、やっぱわからないのかもしれない。
でもそんな人生もアリじゃないかな。パズルは完成したあとのものを眺めるより、完成に向けてあれやこれや試行錯誤するのが楽しいのであって。それと同じで、人生からの問いに答えようともがき続ける、その過程こそが、味わい深いんではないかなーと思うのです。
2017年7月の”キャリアの物語”
ブログの名前を変えました。
「働きかたを編集する」から「キャリアの物語をつむぐ」へ。
変えた理由は感覚的なものなんですけれど、「働きかたを編集する」っていうと、ちょっと冷たい感じがするなーと思っていて。「キャリアの物語をつむぐ」のほうが、なんかウキウキするよな。よし、変えちゃお!ってノリでした。
そう、僕は「キャリアって物語だよな」って思いがあるんです。
以前も、こんなことを書いています。
自分という主人公が、いろんな人と出会い、困難に直面して挫折しながらも、乗り越えて成長していく…。キャリアって、”物語”に他ならないですよね。そして、脚本を描くのも、主役を演じるのも自分。そういう意味では、だれもが人生という物語の主演・脚本を担っているんです。
”働きかた編集者”は、まさにそんな「キャリアという物語」をつむぐ存在。いや、正確にいうと、インタビューであったり、カウンセリングであったり、イベントだったり、いろいろな方法を使って、一人ひとりが「キャリアという物語」をつむぐのをお手伝いする存在だと思っています。
そんなわけで、「キャリアの物語をつむぐ」にしたというわけ。
前置きが長くなりましたが、これから定期的に、これまでつむいだ「キャリアの物語」をいくつか紹介してみようと思っています。主に書いた記事の紹介なんですけど、記事だけでは伝えられないこともあって、それをつらつら書いておきたいっていう気持ちもあります。
”働く×幸せ”を考える
<企画・取材・撮影・執筆を担当>
仕事旅行社さんのメディア『シゴトゴト』で、連載を担当させていただいています。その名も、「仕事は人びとを幸福にするか」。
(えらい大上段に構えた連載名ですね(笑)。ちなみに経済学者宇沢弘文さんの書籍の『経済学は人びとを幸福にできるか』ってタイトルをもとにしています。)
今、働き方に関する議論が盛んになっています。でも、僕はちょっと違和感を感じていて。「長時間労働の是正とか、生産性の向上とかはわかるけど、それで僕らは幸せになれるの?」って疑問があるんです。
もしかしたら、そんな疑問を持っている方は少なくないんじゃないか。であれば、”働く×幸せ”をテーマで記事をつくる意義はあるはずだ。
って思いで始めたのがこの企画。
記念すべき初回は法政大学の児美川教授を取材しました。このブログでも紹介しましたが、昨今の「夢をあおる社会」に警鐘を鳴らしている方。「夢は怪物くんである」という言葉に、すごく共感しました。ぜひご一読ください。
文化として、仕事をとらえてみる
<企画・取材・撮影・執筆を担当>
こちらも同じく、『シゴトゴト』での連載。
そもそも、僕が『シゴトゴト』に関わり始めたきっかけとなったのは、編集長である河尻亨一さんの「仕事を文化として見てみよう」という言葉でした。
仕事の記事というと、堅苦しいインタビューが多いじゃないですか。どうやって給料上げるかとか、仕事を効率化するかとか。もうちょっと「仕事」というものをそういった堅苦しさから解きほぐして行きたい、という思いを持っていたので、「仕事を文化として見てみよう」はすごくピンとくるものがあったんです。
そこで、文化といえばファッションだろうと。ファッションを通して仕事を見てみることはできないかな、ということで、「シゴト着、シゴト気。」という企画を始めました。
初回に登場いただいたのは、マツリテーターの大原学さん。シゴト着がなんと「祭りの衣装」という、この企画にぴったりの方です。「手ぬぐいを"締める”ことの意味」だとか、シゴト着を通して仕事の知られざる一端に触れられたような気がして、個人的にもすごく面白い取材でした。
ローカルにも、稼げて面白い仕事はある
ローカル系の記事もよく作っているので、「どうしてローカルに興味を持ったんですか?」と聞かれることがあるのですが、正直なところローカルに興味があったわけではないんですよね。僕の中で、個人の働きかたの選択肢を増やしたいという思いがあるんですが、その選択肢の一つとしてローカルもあるよね、というノリなのです。
ローカルに興味があるかたは多いものの、実際に移住したり、ローカルと関わるキャリアを歩む方はまだまだ少数派。その要因としては、「稼げない」「面白い仕事がない」ということが挙げられます。
でも、ちゃんとローカルにも、稼げて、面白い仕事はあるんです。
その1例が、石川県七尾市で募集中のローカルベンチャーアテンダントという仕事。月80万円で、地域のローカルベンチャーの経営支援をする役割を担います。地域に入り込んでローカルベンチャーと一緒に泣き笑いしながら地域を盛り上げていける仕事は、面白いと感じる方も少なくないはずです。
こうした、ローカルでの面白い仕事はなかなか情報が上がってこないので、引き続きお伝えしていきたいと思っています。
これからやること
2017年7月に担当したお仕事の一部をご紹介しました。なんかライティングばかりやっているみたいですが(まぁ確かにこの月は実際そうだったのですが)、働きかた編集長の仕事はライティングだけじゃありません。
当然編集の仕事もしていますし、今後はキャリアカウンセリング、イベントの企画・運営・ファシリテーション、プロジェクトマネジメントと、様々な取り組みをしていきたいと思っています。
実際にいくつかのプロジェクトが動き出しているので、近いうちに面白い発表ができるはず。だんだん何屋さんだかわからなくなってくると思いますが、せっかくフリーランスになったので、まったりしっぽりと幅を広げていく所存です。
8月もがんばるぞー!
Ciftが体現する、”多様な人がオープンにつながりあうまち、渋谷”
今日たまたま、SHIBUYA CAST.13階のコレクティブハウス「Cift」におじゃまする機会があったのですが、「ここは、マジですげぇぞ…」って衝撃を受けちゃいました。
Ciftとは
Ciftは、SHIBUYA CAST.13階のコレクティブハウス「Cift」を拠点に、「良心を軸にした“とも”にある生き方」を志向し、実践し、発信する生活共同体。
コレクティブハウス「Cift」では、全世界で100箇所の多拠点生活をしながら100職種の肩書で活躍する、40人のメンバーが生活をしています。(といっても、他拠点生活をしている方々なので、みなさんCiftにはいたりいなかったりだそう。)
メンバーの顔ぶれは、弁護士、国際NGO、コンサルタント、デザイナー、映画監督、ソーシャルヒッピー(?)など、いろんな領域の第一線で活躍する方々です。
自律しつつも協働する場
ちょっと前に、「全国の地域活性化のキモは渋谷なんじゃないか」と書きました。
人脈や知識、アイデア、経験を付与する機能は、多種多様な人がオープンにつながりあっている渋谷だからこそ担える機能なんじゃないか。そういう意味で、冒頭の「全国の地域の活性化のキモは渋谷なんじゃないか」になるわけです。
Ciftで僕が感じた「マジですげぇぞ…」感は、まさにそんな”多種多様な人がオープンにつながりあう”場であることを、肌で感じたから。
共用のコモンスペースでは英語と日本語が飛び交い、雑談をしている人、その横には海外とスカイプでつないでのミーティングをしている人、地域と関わるプロジェクトに関する打ち合わせをしている人(僕らですが笑)もいる。さまざまなバックグラウンドを持ったメンバーが、「良心を軸にした“とも”にある生き方」という共通項のもと、自律しつつも協働しているようでした。
▲海外とつないで勉強会?が始まりました。それぞれの領域で活躍するメンバーがいるので、常に最前線の情報がキャッチアップできるコミュニティになっているのだと思います。
さらに、ここに住むメンバーがオープンマインドで、知り合いやビジネスパートナー、お母さんを招いて、他のメンバーにつなげる。どんどんつながりの輪が広がっていって、「ここにいたらなにかが起こるわ…!」って、本気で思える場なのです。
ごちゃごちゃからイノベーションが生まれる
もはや現代では、「地方」対「東京」、「グローバル」対「ローカル」といった、二項対立の図式はくずれつつあるような気がします。地方が東京に、ローカルがグローバルに影響を与える。その逆もしかり。異なる国のローカルどうしがつながることだってあるはず。
宇宙ができるまえの混沌とした状態みたいに、いろいろな境界がなくなって、価値観が混ざり合っていく。そしてそんなごちゃごちゃのなかからこそ、ビッグバンのように、新しいイノベーションが起きるのだろうと思います。
Ciftはまさに、そんなイノベーションの予感をはらんだコミュニティ。渋谷が、これからますます面白くなっていきそうです。
しあわせは、いつも4つの心が決める?-『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』前野隆司-
「しあわせは、いつも自分の心が決める」
と、相田みつをさんの詩にあります。いい言葉ですねぇ。ほんとうにそうだと思います。
でも人間ってのは(というか僕という人間は)欲張りで、「じゃあ、どんな心だったら幸せなのさ」ということが気になってくる。そんなときに出会ったのが、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授である前野隆司の『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』です。
幸せの4つの因子
前野さんによると、幸せには2種類あります。
ひとつが、人と比較することで得られる「地位財」で満たされるもの。物欲、金銭欲、名誉欲などですね。現在の世の中では、この地位財が幸せの要因だと思われがち。でも実は、地位財で得られる幸福は長続きしないのだそうです。
確かに言われてみれば、ちょっと年収が上がっていい部屋に住み始めて、最初はウキウキしていたのに何ヶ月かするうちにすっかり慣れてしまった……みたいな経験、あるあるですよね。「地位財」によって幸せになろうとする限り、限りなく年収をあげたり、ステータスをあげたりしなくてはいけないのです。そんな人生がダメだとは言わないけれど、僕は疲れちゃうなぁ。
もうひとつの幸せが、「非地位財」で満たされるもの。こちらは人との比較ではなく、自分の心にもとづいています。こちらの幸せは、客観的に計りづらいためなかなか注目されないのですが、地位財による幸せに比べて長続きするという特徴があります。それに、人との比較ではないので自分でコントロールできるのです。
人生を通して幸福でいたいのであれば、年収やステータスだけじゃなくて、この「非地位財」による幸福も大切にしましょうよ、というのが前野さんの提案です。
では、どういう心が幸せにつながるのか。もともと脳科学・ロボット研究というバックグラウンドを持つ前野さんは、因子分析という手法で、幸せには4つの因子があることを導き出しました。それが次のようなもの。
- 「やってみよう!因子」(自己実現と成長の因子)
それぞれがそれぞれらしい自己実現の方法を見つけて、強みを発揮し、成長すること
- 「ありがとう!因子」(つながりと感謝の因子)
ひとを喜ばせたいと思ったり、感謝をしたりすること
- 「なんとかなる!因子」(前向きと楽観の因子)
ものごとをうまくいくと捉えたり、気持ちの切り替えができること
- 「あなたらしく!因子」(独立とマイペースの因子)
他人に左右されなかったり、揺るぎない信念があること
皆さんはこれらの因子を持っていそうですか? この4つの因子は、全部満たしている方が幸せで、ひとつかけていると幸せが下がり、全部かけていると一番幸せじゃないそうです。4つの因子の詳しい説明はここでは書ききれないので、ぜひぜひ本を読んでみてください。
わかっちゃいるけど、人間だもの、にしないために
幸福学なんて聞くと、どこかうさんくさいイメージを持ってしまう方もいそうですが、幸福を客観的に研究した点にこの本のすごくおもしろいところ。また4つの因子以外にも、前半では現在の幸福学研究の概説みたいな部分もあるので、幸福学に関心がある方にとってもいい入門書になるはずです。
著者の前野さん曰く、実践に活かせる幸福学を目指して研究に取り組んできたとのこと。そう、いくら理論ができあがっても、実践されなければ絵に描いたモチになってしまうんですよね。みつをさんじゃないけれど、「人間だもの」にしないためには、この4つの因子を満たすためにどんな行動ができるか、って所まで考えることが必要で、そこらへんを引き続き考えていこうと思います。
自分の中に”問い”を持て
仕事がら、よく本を読んだり、記事を読んだり、イベントに行ったりして、おそらく一般的な28歳男性よりも勉強している方なはずであるわたくし。
が、あとから「あの本、どんなこと書いてあったっけ」「あの記事なんて書いてあったっけ」って振り返ってみると、さっぱり覚えてない。ぜんぜん頭に入っていないんですね。
結構時間をかけてインプットをしたのに何も残ってないのだ、と思うと、「やれやれ。自分は頭悪いのだろか」って気持ちになります。
情報の海に溺れている
まぁでもよく考えたら、現代に生きる僕らはものすごい量の情報を浴びています。ちょっと調べてみたら、全世界の情報の総量は急激に増加していて、2020年になるとなんと、世界中で40ゼタバイトに!!!!
…どうにもピンとこないのですが、44兆GBらしい。とりあえずものスゴイ天文学的数字なのだということはわかりますね。
「情報の海」というたとえがよく使われますが、まさに情報は茫漠たる大洋のように僕らの前に広がっているというわけです。そりゃ、頭に入らなくもなりますよ。(と、自分を慰めてみる。)
とはいえ、編集者のような情報を扱う仕事をしている僕のような人間にとっては、情報の海に溺れてしまうことは致命的。漂流してしまわないように、コンパスが欲しいものです。
情報過多時代の”問い”の重要性
情報過多時代に進む道を示してくれるコンパスとは、”問い”ではないかと思います。
読書の方法について書かれた名著『本を読む本』(J・モーティマー・アドラー , V・チャールズ・ドーレン 著)で、同じテーマについて複数の本を上手に読む、高度な読書術として紹介されている「シントピカル読書」をご存知でしょうか?
ご存知でない方は、ぜひこの記事を読んでください。シントピカル読書の方法がわかりやすくまとまっています。
記事からちょっとだけ抜粋すると、シントピカル読書とは
1.問いを定める
2.異なる視点から書かれた本を二冊以上集める
3.それらを分類、統合して主題に対して多角的に理解する
この3つのステップを踏むことで、異なる文献を当たりながらも情報を整理して理解することができる方法なのです。
このシントピカル読書で、ポイントは”問い”を立てること。それぞれが異なる意見を主張している本どうしを、一つの”問い”を立てることで分類したり、統合したりすることができるのです。逆に”問い”がなければ、それぞれの本はバラバラの情報でしかありません。例えるなら”問い”は、鶏肉とかネギとかピーマンとか玉ねぎといった異なる存在を貫く櫛みたいなものでしょうか。
さらに、”問い”を立てることで、関係のない箇所は読み飛ばすことができる。結果的に効率的に情報を得ることができます。
シントピカル読書は、本の読み方についてのノウハウですが、本に限らず情報を集める時にはすごく有効です。ある”問い”を立てて、記事を読んだり、イベントに参加したり、知り合いと話してみたりしてみると、学びの理解度が違ってくる。それに、効率的に情報を得ることができる。
たとえば僕は今「仕事はどのように人を幸せにするか」という”問い”を持っています。その”問い”を頭においてニュースアプリをみると、自分が読むべき記事がわかるので効率的。さらに、記事を読んでも頭に入りやすい。イベントでもそうですね。僕はイベントに参加だけして満足しちゃって、何も頭に残らなかったという経験がたくさんありますが、そういう残念なことにならなくてすみます。
そうして、ひとつの”問い”で記事やイベント、人との出会いの関係性が生まれてくる。「仕事はどのように人を幸せにするか」という”問い”に対してあの記事ではAと言っていた。でもイベントではBと言っていた。AとBは矛盾するようだけど、この前会ったあの人が言ってたCと考えればAとBは矛盾しないんじゃないか…みたいに、情報が整理されていくんです。これなら、情報の海に溺れずにすみますね。
自分のなかに”問い”を持とう
岡本太郎さんの著書に『自分の中に毒を持て』というタイトルのものがあります。いいタイトルですよね。
それにかこつけて言わせていただけば、情報化社会である現代は、「自分の中に”問い”を持つ」のもすごく大切な気がしています。当たり前のようで、それが結構むずかしいだけどね。
生産性の向上は働く喜びにつながるのか
「働き方改革では、生産性の向上が目指されている。でも、はたしてそれは個人の働く喜びにつながるのか。」
先日参加したイベント「経産省若手官僚×企業人事『HR発イノベーション創出のための対話 ~悩む人事 不安な個人 立ちすくむ国家~』」。そのなかで、登壇者の経済産業省藤岡雅美から、こんな問いが投げかけられました。
いやぁ、本当それですよ。ずっと感じていた違和感を言葉にしてもらえた気がして、すごく共感しちゃって。「生産性の向上は働く喜びにつながるのか」っていう問いについて、イベント後の電車のなかでもんもんと考えてました。
生産性と働く喜びのジレンマ
自律性がキーワード
自律性を発揮した結果、生産性が上がるのがいいのでは
たぶん、ことはそう簡単には運ばないはずですよね。そもそも「モチベーション3.0」は、正解がないなかで創意工夫をしていくような仕事に当てはまるものらしいです。ルーティンワークのような仕事には、アメとムチ的な、報酬と罰を与えることがモチベーションになると。だから職種によっては、自律性はモチベーションにつながらないことがあるかもしれません。
けれど大事なのは、働き方改革を働かせ方改革にしないこと。これからの働き方を考えるときに、経営側・行政側の視点だけじゃなく、働く個人側がどうしたら幸福に働けるか、という視点を持ち込むことは欠かせないはずです。
その意味では、”自律性”はやはり、個人と会社、行政がWin-Winになるための一つのキーワードなんじゃないでしょうか。ひたすらに生産性を上げさせるのではなく、自律性を発揮できるような土壌を作ることで、結果的に生産性が上がる。っていう順番がいいなぁ。みなさんはどう思いますか?