キャリアの物語をつむぐ

働きかた編集者 山中康司のブログ

自己分析の「will・can・must」モデルと「be・can・must」モデル

自己分析はむずかしい。

 

ぼくもキャリアコンサルタントという仕事をやっていて、他人の自己分析についてはあれこれアドバイスするのだけど、自分が自己分析をしっかりできているかというと、まだしっくりきていない部分もある。

 

というのも、自分というのは変わっていくものだし、「自己分析はこれで完璧!」となることはないのだ。

 

とはいっても、その時点で自分がどういう人間なのかということは、とくに就活や転職活動をする際にきちんと把握しておくことは欠かせない。

 

そんな時に役に立つのが、自己分析の「will・can・must」モデルだ。

 

自己分析のwill・can・mustモデル

このwill・can・mustモデルはよく使われているので、もしかしたら、この3つの輪っかに見覚えがある方もいるかもしれない。

 

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「will:やりたいこと」「can:できること」「must:やらなければならないこと」が重なる部分を仕事にすると、自分がやりがいを感じながら、能力を発揮し、周りからも必要とされるという、力強いキャリアが歩める。そのため、このモデルがよく自己分析に使われている。

 

もう少し、それぞれの要素について詳しくみていってみよう。

 

will:やりたいこと

自分が大切にしている価値観や、将来こうしたいと思い描いている未来、やっていて楽しいと思える行動など。

 

やりたいことが見つからない……という方(ぼくも結構そうなのだけれど)は、幼少期にまでさかのぼって考えてみるといい。小さい頃ワクワクした経験や、憧れた人、夢中になったこと……そういったことのなかにヒントがあるはずだ。

 

can:できること

スキルやノウハウ、知識や人脈や人柄といった、自分がなにかの価値を生み出すための資源になるもの。

 

よく、TOEIC何点とかマネジメントスキルといった、「スキル」ばかり注目されがちだけれど、人脈や、「穏やか」「明るい」といった人柄も立派な資源になる。

 

『LIFESHIFT』では無形資産の重要性が指摘されていたが、まさに人脈や人柄はたいせつな無形資産だ。

 

must:やらなければならないこと

社会や会社、家族から求められていること。たとえば「子ども世代に残せる地域の環境をつくる」とか「営業担当として売上をいくらあげる」とか「家計を支えるためにいくら稼ぐ」とか。

 

「はたらく」とは「”はた(傍)”を”らく(楽)”にする」ことだと言われる。つまり、”はた(傍)”がどんなことを求めているかをしっかりと把握することができて初めて、「はたらく」ことができ、お金や信頼といった見返りを得ることができる。

 

だから、mustについてか考えることは、 willやcanを仕事に落とし込むうえでとても大切だ。

 

ここで参考までに、ぼくのwill・can・mustをのせておく。

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この3つの輪っかが重なる部分が、フリーランスで編集力を活かしながらソーシャル領域のキャリア支援・採用支援に取り組む「働きかた編集者」という仕事だった。

 

3つの話を埋めるポイント

この「will・can・must」モデルを埋めるときのポイントは、次のようなことだ。

 

・willはbeでもいい

先ほどもいったように、willをあげるのはむずかしい。というのも、なにをやりたいかは環境に左右されるのだけれど、今の時代環境はコロコロ変わるからだ。たとえば、「翻訳家になりたい」と思っても、今後翻訳家という仕事があり続けるかはわからないのである。

 

だから、やりたいことがわからない人は、「will=なにをやりたいか」よりも「be=どうありたいか」を考えると考えやすい。

 

「be=どうありたいか」は、どんな環境になってもかわらない、自分の根っこのようなものだ。たとえ自動翻訳の技術が発達して翻訳家という仕事がなくなっても、「be=どうありたいか」が「異なる背景を持つ人の橋渡しをする存在でありたい」だったら、他にも仕事の選択肢はたくさんある。

 

こんなふうに、「be=どうありたいか」が明確だと、どんな環境にもうまく自分の居場所をみつけていけるのだ。

 

ちなみにこの「be・can・must」モデルで考えてみると、ぼくはこんな感じになる。

 

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・拡散と整理の順番で取り組む

いきなり紙に向かって正解を書き出そうとすると、ペンが止まってしまう。まずは、思いつくままにバーっと書き出してみるのがいい。べつに間違ってもいいのだし、まず大事なのは、思いつくもののをたくさんあげることだ。

 

だから、作業に取り組む場所はリラックスできる場所がいい。カフェとか、図書館とか、自宅とか、自分がリラックスできる場所で取り組んでみよう。

 

一通り出し切ったと思ったら、その要素を整理してみる。共通するものがあったらまとめてグルーピングして名前をつけてみたり、その作業の中で思いつくものがあったら書き足していい。

 

・他人の視点を取り入れる

人は生まれてから死ぬまで、自分の顔を直接みることはできない。鏡や写真で見れる自分の顔は、間接的に見れるにすぎない。ことほど左様に、自分のことについて自分で知るのはむずかしいのだ。

 

ぼくも、「自分のことは自分が一番よくわかってる」と思っていたことがあったけど、他人にカウンセリングをしてもらう機会を得るようになって、それがどれだけ間違っているかをつくずく実感した。

 

だから自己分析では、他人の視点を取り入れることが不可欠だ。とくに「can」の部分は、自分では当たり前にやっていることが相手にとってはすごいことだったりする。

 

身近な友達や同僚、家族などに、自分はどんな人間か、恥ずかしいかもしれないけど聞いてみるといい。

 

・あまりでなかったら、項目が増える行動をすればいい

とくに学生のうちは、項目を出すのが難しいことがある。とくに「can」は、社会人経験を積んでいないとなかなか出せるものじゃない。

 

それは決して問題じゃない。ここでは、「自分はcanが足りないな」「willがみつからないな」としれたことが重要だ。そういったことに気づいたなら、自分のことをより深く知ったり、会社や社会のことを知ったりするための経験、キャリアカウンセリングの言葉で言うと、「啓発的経験」をつんでみよう、という意思決定ができる。学生ならインターン、社会人ならプロボノやボランティアといった選択肢があるだろう。

 

ちなみにぼくの場合、いまフリーランスで働いているのは、これらの項目を増やすためだ。フリーランスだと幅広い仕事ができるので、その分いろんな可能性を試してみることができる。『LIFESHIFT』でいう、「エクスプローラー」のキャリアだ。

 

冒頭で、ぼく自身もまだ自己分析が完璧にできているわけでないといったように、自己分析はどこかで完璧になるというものじゃなく、キャリアの節目にその都度する必要があるものだ。

 

だからこそ、こうしたモデルを知っておくことは一生役に立つはず。ぜひ、頭の片隅に置いておいてもらえると嬉しい。

お金2.0時代の働き方を「壁と卵」で考えてみる

働く個人は、「金の卵」である必要があった--。

 

社会学者の見田宗介さんは、『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』のなかで、高度経済成長の裏で、それを支えた個人のアイデンティティが蝕まれていたことををていねいに分析している。

 

ごくごくざっくりとまとめてみると、次のようなこと。

 

急速な経済成長を実現するためにはたくさんの労働力が必要で、そのために農村から若者が都市へとかりだされた。

 

若者は、都市に夢を持って(おらこんな村いやだ!的な気持ちで)、都市で自分のやりたいことを実現したいと思って上京するのだけれど、都市の企業が(あとは国が)求めてるのは、個性なんてものを持たずにただ利益を生み出してくれる「金の卵」としての若者だった。

 

「金の卵」は、内側から食い破ることができない。個性を出そうと思っても、システムがそれを許さない。「金の卵」として働くうちに、若者の個性、アイデンティティはむしばまれていく……。

 

(くわしくは過去のエントリをご参照ください)

求職活動がもたらすアイデンティティへの影響とは?-『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』見田宗介- - キャリアの物語をつむぐ

 

自分が「金の卵」として見られていると考えたら、なんだか気持ちが滅入ってしまうのだけれど、なにもそれは過去の話じゃない。見田宗介さんが分析したように、個人が「金の卵」として働かされ、そのことが個人のアイデンティティをむしばんでいくような状況は、今でもあるはずだ。「一億総活躍社会」の背景には、個人を「金の卵」として見るような考え方が透けて見えるような気もする。

 

お金2.0時代の働き方

 

ただ、最近では働く個人をめぐる違った状況も生まれてきてる。

 

特に、今話題のメタップス創業者佐藤航陽さんの著書『お金2.0』では、すごくヒントになることが語られていた。

 

『お金2.0』でぼくがポイントだと思ったことをざっくりまとめてみると。

 

・資本主義では資産経済(お金からお金を生み出す、金融経済)が膨張し、世の中の人々が感じる価値と乖離が起きた。

・さらに、テクノロジーの発展も加わり、「お金」は価値を保存・交換・測定する一つの手段にしかなくなっている。

・そのため、お金などの資本に変換する前の「価値」を中心にした世の中になる。(これが「価値主義 valualism」)。

・価値とは、

①有用性としての価値:役にたつこと。これまでの資本主義で重視されていた。

②内面的な価値:愛情、共感、興奮、好意、信頼など、人々の内面にポジティブな効果を及ぼすこと。

③社会的な価値:社会の持続可能性につながること。

・価値主義では、これらの価値を最大化しておくことが最も重要。

 

こうした「価値主義」がひろがるなかで、個人のキャリア形成のありかたも変わりつつあるみたいだ。

 

これまでのように有用性としての価値=スキルや経験だけでなく、信頼や共感といった内面的な価値、持続可能性への志向といった社会的な価値を高めていくことが大切になる、と本の中では述べられている。

 

たしかに、最近では、個人が擬似株式を発行できる「VALU」や、

 

valu.is

 

個人の時間を売り買いできる「Timebank」、

timebank.jp

 

自分のページでレビューを貯めることで信用を可視化できる「MOSH」、

 

mosh.jp

 

など、内面的な価値や社会的な価値を保存・交換・測定できるようなサービスも次々に生まれている。

 

こうしたサービスの後押しもあって、佐藤航陽さんが言うように、お金2.0の時代は、個人も有用性だけではなく内面的・社会的価値を高めることが、就職や転職、独立につながるようになるはずだ。

 

 キャリアの壁と卵

 

個人を「金の卵」として見る、とは、「有用性としての価値=役にたつこと」というものさしに個人を押し込める、ということ。そう考えると、お金2.0の時代には、「金の卵」は減っていくのかもしれない。

 

というか、ぼくはキャリアコンサルタントとして、採用、人材系サービスに関わる人間として、「金の卵」を減らしていきたい。そして、卵が卵として、やわらかな個性を持ったまま、その個性を羽ばたかせられるように支援をしていきたい。

 

組織やシステム側が、利益をうむ「金の卵」であることを個人に望んできたとしても、それを選ばなくてもいい選択肢をさらに増やしていけたらいい。VALUのようなサービスを作るのもそうだし、有用性としての価値以外が価値としてみなされるコミュニティを作るのもいい。

 

さらに、選択肢があってもそれを知らなかったり、その中から選ぶのが難しかったりするので、その選択肢からきちんと個人が自らに合った選択をできるように支援していく必要があるし、「選びたくても、サービスの使い方がわからない!」という人もいるので、リテラシーを教える必要も出てくるかもしれない。

 

ただ、「いや、私はスキルや経験を身に付けて、会社の売り上げに貢献したいんですよ」と個人が思うのなら、それは尊重しないといけない。問題なのは、個人が望まないのに、「金の卵」として搾取されているような状況があることだ。

 

村上春樹さんは、エルサレム賞の受賞スピーチで次のように言っていた。

 

もし固く高い壁と、それにぶつかって壊れてしまう卵があったら、私は卵の立場に立ちます。
なぜなら、私たち人間は皆システムという高い壁に直面している卵だからです。

 

ぼくのキャリアコンサルタントとしての立場も同じで、壁と卵があったら、卵の側に立ちたい。

 

村上春樹さんは、そのためにペン(というかPC)と想像力を武器にしているけれど、ぼくはキャリアコンサルタントとして、なにを武器にしていこうか。「卵の側のキャリア支援」の方法については、もうちょっと考えてみたい。

 

採用はgive&give

昨日は、ぼくがプロジェクトマネージャーを務める「グリーンズ 求人」のキックオフイベントだった。

 

テーマはずばり、「”いい採用”でこんばんは」。

 

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”いい採用”ってなんだろうね、ということを、みんなで考えましょう、という趣旨のイベント。グリーンズ 求人に求人を掲載した株式会社meguriの杉本綾弓さん、郡上カンパニーの岡野春樹さんをゲストに、”いい採用”とはなにかについてトークをしたのだけど、お二人とも採用について一家言あって、とてもおもしろかった。

  

お二人の話から見えてきたことのひとつは、「give&takeでなく、give&give」という採用のあり方。

 

その人の思い描く人生にとって、この組織で働くことがどのように意味を持つのかを、選考の際に丁寧にすり合わせていく。組織やプロジェクトが描く未来と、個人が描く未来が重なり合うとき、組織と個人がgive&giveの関係になれる採用が実現するのだ。そうした採用をすると、仮にいずれ退社したとしても、「また機会があれば一緒に」というような、長い関係性を築くことができるのだとか。

 

もちろん、「give&give」の採用は簡単じゃない。面接や書類選考も、丁寧に行う必要があるから、短期的にはコストがかかってしまう。でも長期的に見れば、仲間がどんどん増えて行くので、人がいなくなるたびに採用活動をしなければいけない組織に比べて、コストは低くなるんじゃないかな。

 

それが雇用という関係でなくても、アドバイザーとか、業務委託とか、あるいはファンとか、さまざまなかたちで関係性を繋いで行くことができる。組織にとって、いろいろな関係性のネットワークに支えられていることは、きっとつよみになる。

 

”いい採用”とはなにかという問いについて、答えは出ないけれど、「give&give」は大切なポイントになりそうだ。

 

 

「仕事研究=業界研究」ではないという話

就活生の支援をする機会が増えたので、昨今の就活事情について勉強をしはじめた。

 

ぼくが就活生だった頃と違うこともあれば、まったく変わらないこともあって、とてもおもしろいのだけど、そのなかで「ん?」と違和感を感じたことのひとつが、「業界研究」のこと。

 

就活本を読んでいても、就活生と話していても、「仕事研究=業界研究」になっているような印象を受けるのだ。

 

…いや、それはいいすぎだな。仕事研究の中で、業界研究が占める割合が大きいというか。どんなことを仕事にしたいかとという時に、「飲食業界に行きたい」「IT業界に行きたい」というこたえをもらうことが多いような気がする。

 

それ自体は、ぜんぜん悪いことじゃない。でも、転職活動をしたことがある方ならピンとくるかと思うけど、自分に合った仕事を選ぶとき、業界研究はそのひとつの入り口にすぎないのだ。職種で選ぶ人もいるし、働く仲間で選ぶ人もいるし、社食の美味しさで選ぶ人もいる(いるかな?)。

 

これは転職市場の話だけど、『@人事』の記事によると、価値観の多様化や業務の細分化によって、「社会の変化により、就社(会社情報)→就職(職種情報)→就職場(職場情報)へと、求職者が企業に求めることも変化してきている」らしい。

(参考:求職者が転職活動中に企業へ求める情報とは?|@人事ONLINE)

 

これって、就活生にも言えるんじゃないのかな。つまり就社や就職じゃなく、その仕事の具体的な内容や、どんな人と働くかという「就職場」というニーズは高まっているのだけど、職場の具体的な情報が手に入る機会は少ない。だから、これまでの学生と同じ「業界研究」という方法に頼るしかなくなっちゃってるのかもしれない。

 

その意味では、インターンの機会はすごく重要なのだろうな。その会社に行って、実際に働く機会を通して、職場の雰囲気や具体的な業務をすることができる貴重な機会だから、学生の皆さんには存分にその機会を活かして欲しい。

 

 

ズボンのチャックあいてる人のための採用について

「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。」

 

村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』で、主人公の友である「鼠」が語ったこの一節。ずいぶん前に読んだのだけど、やけに頭にのこっている。それは、僕が人に惹かれるときに、強さよりもむしろ弱さに惹かれるタチだからかもしれない。

 

人の弱さって、なんていうか、愛おしいのだ。

 

エレベーターに乗り合わせた、ビシッとスーツでキメたサラリーマンのチャックが空いてて、水玉模様のパンツがのぞいてたりとか(この前ほんとにあったのだ)、電車で目の前に座る美女の口元にご飯つぶついてたりとか。そういう光景に出くわすと、思わずハグしたくなる。僕もよく抜けたことをやらかすので、「お前もかぁあああ!」って。

 

恋愛だって、カンペキな相手より、ちょっとダメなところがあって、人間くさい人と付き合いたい。カンペキだったら、相手にとって自分がいる意味ないもの。

 

それに、カンペキな人間なんていないのだ。「この相手がカンペキ!」って思ってたら、十中八九付き合ってから「こんなはずじゃなかった…」ってオチになるだろう。だとしたら、付き合う前にその人の弱い部分、ダメな部分をお互い知っておくことは、良い関係を築くためにすごく大事なことだ。「僕、たまにチャック開いてるけど、許してね」って。「ごめんなさい。私そういう人ムリなの。」ってなったら、しょうがない。

 

…まぁ「付き合う前にお互いのダメなとこも知っておきましょうよ」なんて、僕などがいうまでもなく「そらそうだわ」って、みんなも思うんじゃないか。

 

でも、こと「採用活動」となると、同じマッチングにもかかわらず「弱い部分、ダメな部分をお互い知っておく」ことがおろそかにされがちなのはなんでだろう。

 

ふつう、採用活動では、人が欲しい会社も働きたい個人も、弱みはそんなに見せない。どちらかといえば、強みを強調して自らをアピールするはずだ。会社であれば、「若くて経験つめる」「高収入」「福利厚生充実してる」、個人であれば「TOEIC900点」「MBA持ってる」「マネジメント経験有」とかかな。

 

でも今日、僕が関わっている「グリーンズ 求人」というプロジェクトのミーティングで、「採用でも弱みを見せていいんじゃないの?」って意見が出て、ハッとした。「弱みでマッチングする採用のあり方もあるんじゃないか」って。

 

たとえば、会社は「あんま給料高くないんですよ」「ぶっちゃけ残業多いんですよ」「実はワンマンで…」みたいなこと、個人は「ストレスに強くなくて」「英語を聞くとじんましんが出ちゃうんです」「対人恐怖症で…」みたいなことを、採用の段階で共有しておく。そしたら、相性をちゃんとみてから採用することができて、採用後に「こんなはずじゃなかった」とならずにすむはずだ。

 

弱みをさらけ出せないのは、会社も個人も、「さらけ出したら数あるライバルの中から選んでもらえないよ」と思うからなはず。でも、僕だったら弱みをさらけ出している会社や個人の方が、誠実で、一緒に働きたいなぁと思うけれど。もしかしたらさらけ出した方が、逆に人が集まったりして。

 

今はどの求人情報サービスを見ても、「強み」でサーチできるものばかりだ。逆に、「弱み」でサーチできる求人情報サービスがあっても面白いかもしれない。

 

「コミュ障歓迎」とか「朝寝坊推奨」とか「チャレンジ精神なくてよし」とか。そこは他のメンバーが補いますよー、だから自分のいいところを存分に発揮してちょうだいね!って会社が伝えられる。そんな求人情報サービスがあったら、仕事選びがちょっと人間くさいものになる。

 

僕は人間くさいのが好きなので、そんなサービスがあったら使ってみたい。そして、面接にはチャック全開でのぞむのだ。

 

先生が教えてくれない「木を見て森を見る」の意味

「木を見て森を見ず」

 

という言葉があります。近視眼的になっちゃってる、という意味ですね。

 

逆に、「森を見て木を見ず」みたいな言葉はないけれど、そういう状況もあります。マクロの環境ばかりに注目してしまって、ミクロの存在やその動きに目が届かない、って状況。だから、理想的なのは、「木を見て森も見る」、つまりミクロもマクロもちゃんとわかっていること。

 

…なんて思っていたのですが、「あ、これ、ちょっと違うかも」って気づいたのです。

 

そのきっかけは、今日日本財団で行われた「ローカルベンチャーサミット」という、全国でローカルベンチャー(地域での起業や新規事業)を推進する自治体や組織が一堂に会する年に1度のイベント。

 

僕は撮影スタッフをさせていただいていたため、各自治体の首長や団体のメンバーのお話をじっくり聞くことができたのですが、その時に思ったのが、「ローカルベンチャーを巡る状況って、『木を見て森も見る』だけではどうも掴みきれないな」ということ。

 

抽象的なのでもうちょっと詳しく言うとですね。

 

「木」をローカルベンチャーの実践者、「森」をそれらを支援する自治体だとします。すると、たしかに「木を見て森も見る」的に、その両方の視点に立つことは大切なのだけど、それだけだと見落としてしまうものはあるなぁと。ローカルベンチャーの動きはローカルベンチャーの実践者、それを支援する自治体の動きだけでは捉えきれないのです。

 

そこにはローカルベンチャーの実践者を支援する企業の存在があり、自治体にお金を出す政府の存在があり、それらのつながりを媒介する組織の存在があり、そしてそれらが影響を与え合いながら生かし合う、関係性の網の目がある。

 

つまり、”生態系”なんです。

 

これって、ローカルベンチャー以外にも言えることなはず。現代はいろんなことの境界がなくなっていきつつある時代です。国という境界、会社という境界、AIと人間という境界…みたいな境界があいまいになる中で、関係性が複雑に絡み合って、”ミクロとマクロ”という視点だけではその事象を捉えきれなくなってきた。

 

”ミクロとマクロ”ではなく、それぞれの存在が複雑に影響し合う”生態系”として捉えた方が、しっくりくるように思うんです。

 

で、「木を見て森を見る」という言葉のはなし。僕は「ミクロもマクロもちゃんとわかっていること」って思ってたんですが、そうじゃないのかも、と。

 

視点の狭さ・広さの話なんじゃなくて、生態系として見る視点を持っているかどうか。その事象に潜む関係性の網の目をみることができているか、ってことなんじゃないのかと、そう思ったわけです。

 

…だとしたら、「木を見て森を見る」って超ムズいじゃん。関係性の網の目がどうなってるかなんてwilipediaに載ってないし。すぐ変わりそうだし。かんべんしてよ。

 

ってスネちゃいそうになるのですが、ムズいからこそ、「木を見て森を見る」ことができたら強い。なんなら関係性の網の目を編集することすらできるわけですから。

 

僕も「働きかた」という森で、「木を見て森を見る」存在でありたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

【ネタバレ有】映画でキャリアを語りたい- vol.1『横道世之介』-

いかに生きるべきか。

 

みたいな、自分のキャリアことを考えていると、眉間にシワがよってくることがある。

 

就活のときとか、転職のときとか、考えなきゃいけないタイミングは人生のなかで訪れるんだけど、「あなたの軸は?」「哲学は?」って聞かれても、ぐむむとなってしまう経験って、僕以外にも多くの方があるんじゃないかな。

 

この映画の主人公は、軸がない。大学生である横道世之介は、フィジカルな意味でも、歩くときに身体がナナメになってて、正直気持ちわるいのだ。(高良健吾が演じているから超イケメンなのに、ちゃんと(?)気持ち悪く見えるから、その演技力たるや!)それに、言動を見ていても、特に自分の哲学的なものはなさそうである。就活的に言えば、「自分の軸がない」。これじゃのぞむ仕事は得られない。

 

と思いきや、作中では明確に描かれないけれど、世之介は自分の仕事をちゃんと見つけるのだ。それは、アパートの隣人との思わぬハプニングがきっかけになっている。

 

それを単なる偶然と言ってしまえばそれまでなのだけれど、僕らのキャリアって、実はこうした偶然の積み重ねによってつくられるものだ。偶然行ったイベントで出会った人が、仕事を紹介してくれたり、偶然見た本が転職のきっかけになったり。

 

キャリアの理論でも、「そうした偶然を活かしてキャリアをつくっていきましょうよ」というものがある。ジョン・D・クランボルツの「計画された偶発性理論」というもので、クランボルツ氏によると、次のような特性を持っていると、偶然を引き寄せやすいのだとか。

 

(1)「好奇心」 ―― たえず新しい学習の機会を模索し続けること
(2)「持続性」 ―― 失敗に屈せず、努力し続けること
(3)「楽観性」 ―― 新しい機会は必ず実現する、可能になるとポジティブに考えること
(4)「柔軟性」 ―― こだわりを捨て、信念、概念、態度、行動を変えること
(5)「冒険心」 ―― 結果が不確実でも、リスクを取って行動を起こすこと
(参考:『その幸運は偶然ではないんです!』ジョン・D・クランボルツ、A.S.レヴィン著 花田光世ら訳 ダイヤモンド社 2005)

 

世之介はいろんなことに首をつっこむし、楽観的だし、軸がないぶん柔軟だ。だからこそ、キャリアを変える思わぬ偶然を引き寄せることができた。

 

自分の軸をつくろうとして眉間にしわを寄せているのもいいけれど、キャリアデザインについて世之介から僕らが学ぶことは多いんじゃないかな。