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働きかたを編集する

働きかた編集者 山中康司の備忘録

【読書録】ぼくたちが生きる”現代”はどんな社会なんだろう?-「現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書) 」見田宗介-

「ぼくたちが生きる”現代”はどんな社会なんだろう?」

 

これが大学院で社会学を学んできたぼくの、根っこにあった問いです。その問いにたいして、いちばん「そういうことか!」と納得できるこたえを提示してくれたのが、社会学見田宗介さんの『現代社会の理論』でした。

 

 

経済学者の内田義彦さんは、晩年の著作である『読書と社会科学 』(岩波新書)で、人文社会科学には、社会を見つめるための「概念装置」が必要だと説いています。つまり、自然科学では電子顕微鏡などの「物的装置」を使うように、社会をみつめるときにも「概念」という装置、たとえるなら虫眼鏡を使ったほうが、ものごとを分析しやすいよ、ということですね。その意味で、ぼくにとってすごくクリアな虫眼鏡を提供してくれたのが、社会学見田宗介さんの『現代社会の理論』だったんです。

 

前置きが長くなりましたが、現代社会の理論』が示した現代社会のありかたついて、簡単にまとめてみます。

 

現代社会は市場を自分で創り出す

見田さんは、現代社会を「消費化・情報化社会」と呼びます。「消費化・情報化社会」は、市場を自己創出する資本主義が主流になった社会です。

 

第二次大戦ごろまでの資本主義は、基本的矛盾を抱えていました。それは、供給の無限拡大と、需要の有限性に起因するものです。すごく単純に言えば、小麦はどんどん作れるけど、人の胃袋には限界があって、どこかで経済成長は止まる、ということ。行き着く先が、1929年の大恐慌であったり、軍需によってむりやり需要をつくりだす戦争でした。

 

これではいけない。そこでアメリカがとった戦略が、(1)ケインズ主義による「管理化」と(2)モードの論理による「消費化」により需要を作り出す、ということでした。(1)に関しては置いておいて、(2)が画期的。ひとびとの必要にかかわらず、広告によって新しい需要をつくりだすのです。たとえば、マイシーズンモデルチェンジを繰り返すブランドものの服などです。

 

こうして、「情報」を操作することによって需要を無限に創り出すことが可能になりました。需要の限界にもとづいていた資本主義の基本的矛盾はここで解決され、消費が自己生成をつづける、見田宗介さんが言うところの「欲望のデカルト空間」を持った、「消費化・情報化社会」が生まれるのです。

 

見田さんは「消費化・情報化社会」を否定しません。自己を相手の再生産サイクルの不可欠の一環とするという意味で、消費者と社会を「昆虫と顕花植物」にたとえ、「それぞれの幸福は、相手の幸福でもある」と指摘します。

 

昆虫は甘い蜜に誘われて顕花植物から顕花植物へ飛び回る。そんな昆虫の欲望にもとづいて、顕花植物は花粉をはこび、繁茂していく。おなじように、消費者が欲望のままに買い物を楽しむことによって、社会が成長していく。自分の欲望によって社会が成長していくからといって、毛皮のブラウスを買ったり、肉汁したたるステーキを買って食べることが幸せであることに変わりはありません。

 

こうして、ひとびとの欲望を無限に作り出していくところに、消費化・情報化社会の相対的な卓越性と魅力があると見田さんは指摘しています。

 

消費化・情報化社会の「外部問題」

ただ、消費化・情報化社会には深刻な問題があります。それは、自然との臨海面と、外部社会との臨海面にそれぞれ生じます。

 

自然との臨海面

消費化・情報化社会がよってたつのは、以下のような構図を前提にした世界です。 

 

[大量生産→大量消費]

 

この構図であれば、生産と消費は無限に拡大していきます。しかし、実際にあるのは次のような構図です。

 

<大量採取→[大量生産→大量消費]→大量廃棄>

 

無限に需要を自己創出する消費化・情報化社会も、生産と消費のポイントで自然に依存し、その範囲に限定されるのです。その限界を考慮に入れず、犯してしまったとき、水俣病や、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で指摘したような環境破壊が起こります。

外部社会との臨海面

また環境だけでなく、南北問題に代表されるような貧困の問題も生じます。この構図を見田さんは「二重の剥奪」として説明します。

 

まず第一の剥奪として、GNP(国民総生産)を必要とするシステムに組み込まれること。言い換えれば、貨幣を持つことが生きるために不可欠な社会に組み込まれることです。次に第二の剥奪として、GNPが低いこと。つまり単純に「GNPが低い=貧困」ではなく、これら2つの剥奪が重なった時、「貧困」となるのです。(貨幣への疎外、貨幣からの疎外)

 

具体的には、主に北半球の先進孤高の高度化し続ける消費水準が、南の貧困を作り出していることが一般的に指摘されています。それだけではなく、北の先進国でも貧困はあります。(日本でも、貧困率の高さが問題になっていますね)。なぜならば、生きるためにはお金が必要で、その必要なお金の水準は経済成長によって釣り上げられるものの、その「必要」に対応することは社会の完治することではないからです。「必要」に対応することでは、資本主義は成長できないのですから。

※この問題に対して、経済学者の宇野弘文さんは「社会的共通資本」の整備の必要性を説きました。 

 

このようにして、現代社会は自然との臨海面と、外部社会との臨海面にそれぞれ問題を生じさせてきたのです。

 

この本から考えたこと

ここまで見てきたような問題が、ぼくたちが生きる現代社会にはあります。それでは、そうした課題をどう解決していったらいいのか。見田さんは、消費化・情報化社会の射程を開くことで克服していけると主張します。

 

「情報」には(1)認識としての情報(2)設計としての情報という2つの「手段としての情報」と、(3)美としての情報という「直接それ自体が歓び」であるという3つ作用があるとし、美としての情報によって消費社会を非物質的なものによる「生きることの歓び」の地平に着地することで、外部収奪的でない社会にできる…というのです。

 

たしかに、近年フェアトレードなど、エコやロハスがひとつのトレンドになってきており、消費思考がそうした方向へシフトしていけば現代社会の課題は解決の方向に向かっていくでしょう。

 

ただぼくは正直、この「美としての情報」についてまだつかみきれていない。抽象的なので、具体的になにかの活動に落とし込んでいく時に、もうすこし具体的に噛み砕いて行かないとなぁと思っています。

 

さらに、「美としての情報によって…外部収奪的でない社会にできる」というのは、楽観的すぎはしないか。たしかにそうなれば理想的だけども、人間が生まれてから、だれもが「生きることの歓び」を享受し、他人を傷つけないですむ社会が存在したかと言われれば、しなかったんじゃないのかなぁ、と思ってしまいます。ぼくがちょっと性悪説によりすぎてるのかもしれないけれど。

 

現代社会では「情報」ということが鍵になるのは間違いないと思うので、(1)認識としての情報(2)設計としての情報をいかに持続可能な方向に組み替えていくかが、今後問われていくのではないかと個人的には思います。

 

さて、この本で論じられたのは、現代社会が「外部」におよぼす影響であったので、今度は「内部」、つまりぼくたちのアイデンティティにおよぼす影響について学んでいければ。今回はこのへんで。