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働きかたを編集する

働きかた編集者 山中康司の備忘録

【読書録】現代日本を理解するための3つの時代区分-『社会学入門-人間と社会の未来』見田宗介-

以前のエントリでは、見田宗介さんの『現代社会の理論』から、現代社会を情報化・消費化社会として見る視点をまとめました。

 

kjymnk.hatenablog.com

 

現代社会の理論』の続編とも位置づけられるのが、今回紹介する『社会学入門』。”わたしたちが生きる現代社会とはどんな社会か”を考える上でのヒントがたくさん詰まった一冊なので、何回かに分けてぼくがポイントだと思った部分をまとめます。

 

今回は、「 3章 夢の時代と虚構の時代」について。戦後から現代までの日本社会が、どのように変わってきたのかを、高度経済成長期を軸に3つの区分を用いて説明している部分です。

 

それでは、その3つの区分について順番にみていきましょう。

 

<理想の時代>プレ高度成長期 1945-1960

 終戦から1960年までは、人々が理想を求めて生きた時代だと見田さんは述べています。具体的には、アメリカのような物質的豊富さを求めた時代です。当時の日本には、第二次大戦ではアメリカの圧倒的物量の前に破れた、という意識があったことが、根底にありました。

 

政治思想の点では、当時の日本には2つの理想が支配していました。

(1)アメリカンデモクラシーへの理想

(2)ソビエトコミュニズムへの理想

です。

 

こうした2つの理想主義的党派は現実主義的な権力に1960年の安保闘争で破れることになります。ここまでが、理想の時代。

 

<夢の時代>高度経済成長期 1960-1973ごろ

そして訪れたのが、見田さんが現代日本社会が形作られたと指摘している高度成長期。

 

日米安全保障条約改定を目指した岸内閣の後を引き継いだ池田内閣(1960-1964)による「日本社会改造計画」によって、その方向性が決定づけられます。

 

「日本社会改造計画」には2本の柱がありました。「農業基本法」と「全国総合開発計画」です。前者で小農民の切り捨てにより伝統的な農村共同体が解体され、後者で全国土的な産業都市化が進められました。そうすることで、高度経済成長にとって必要な資本・労働・力場が形成されました。

 

農村共同体が解体されたことで、それまでの拡大家族(親と、結婚した子供の家族などが同居する家族形態)から、核家族へと、家族の形も変わります。

 

このような劇的な変化のただなかにあった日本社会を覆っていたのは、”幸福感”でした。見田さんは次の6つが、その幸福感の背景にあったと指摘します。

 

・衣食住という基本的な欲求が満たされたこと

ベビーブーマーが思春期という感受性豊かな年代にいたこと

・古い共同体から近代核家族という新しい自由な愛の共同体が生まれたこと

・この局面の経済成長が階層の平準化に向かう方向で機能したこと

・大衆の幸福と経済繁栄が好循環する「消費資本主義」が日本でも成立したこと

・戦中から戦後という貧しさと悲惨の時代の憶が新しかったこと

 

しかしこうした幸福な時代も長くは続きません。1974年のオイルショックをきっかけに、1974年に戦後始めて日本はマイナス成長を記録します。

 

<虚構の時代>ポスト高度成長期 1970年代後半-現在

 

高度経済成長期のあとに訪れ、現在まで続いているというのが<虚構の時代>。

 

経済的には1970年代中葉をとおして、高度成長から安定軌道への軌道修正が追求されます。夢の時代の終焉と呼応して、「終末論」と「やさしさ」という1974年の流行語が、その後20に渡って時代の完成の基調を表現する言葉となります。

 

さらにこの時代の日本人には、ある感受性の変化があらわれます。見田さんが挙げるのは次のようなことがらです。

 

・関係の最も基底の部分(家族のコミュニケーション)が、演技(虚構)として感覚される(家族のだんらんは、”わざわざしなくてはならない”もの)

・「映像や写真に写されたものこそが真」という認識論=存在論(電線にとまるスズメをみて「スズメが映っている」と言う幼稚園児の感覚)

・土のにおいや汗のにおいといった、リアルなもの、自然なものの脱臭に向かう、排除の感受性(カワイくないもの、ダサいものを排除する遊園地的空間としての渋谷)

・人間の内的な自然(肉体のリズムなど)の解体と限界という界面に展開しつづける、戦闘の形態(24時間戦うことを強迫されるビジネスパーソンの、薬剤と心身症

 

つまり、家族のコミュニケーション、写真の向こう側にある現実のモノ、肉体のリズム、土のにおいや汗のにおい……といったリアルなもの、自然なものが、虚構にとってかわられていく。そんな時代が、1970年代後半から現在まで続いていると見田さんは述べます。

 

※ちなみに、ふと思い出したのですが、『暮らしの手帖』をつくった花森安治さんは、みずからの戦争の期経験から「暮らしという身近なところへの視点を欠いてしまうから、戦争が起こってしまう」(うろ覚えです)といった考えから『暮らしの手帖』をつくったと、どこかで読んだ記憶があります。戦後すぐに、自然やリアリティのたいせつさに気付いていたその視点のするどさに驚かされます。

 

 

リアリティへの揺りもどしが来ている?

 

「虚構の空間と虚構の時代は、どこまでつづくか?」

 

これが見田さんがこの章の最後に投げかけた問いです。ぼくは3.11を大きなきっかけとして、虚構性からリアリティとか自然への揺り戻しがきているのではないかな、という肌感覚があります。

 

たとえば書店に並ぶ雑誌の見出しを見ても、エコやロハス、田舎暮らしやIUターン、など、リアリティへの揺りもどしを想像させるような言葉がならんでいます。

 

いっぽうで、「カワイイ」という見出しのファッション紙や「効率化」という見出しのビジネス紙、「モテるインスタグラムのコツ」などの、見田さんが述べるところの虚構性を象徴するような雑誌も並んでいて。

 

書店でのこの”リアルと虚構”のせめぎ合いは、ちょうどいまの日本社会が”リアルと虚構”のあいだでゆれている、ひとつの過渡期であるということの現れてあるようにも思います。

 

ただ、”リアル”とか”自然”という方向性に向かう時に、高度成長期に解体された農村共同体や拡大家族はほとんど残っていない。だから、それらの変わりとなる地域でのコミュニティや、疑似家族(シェアハウスなど)があちこちで生まれているのでは。

 

さて、わたしたちが迎えるこれからの社会は、いったいどのようなものになっていくのか。また、どのようなものにしていくべきなのか。それを考える上で、この本はとても参考になるので、興味があればぜひ読んでみてください。