キャリアの物語をつむぐ

働きかた編集者 山中康司のブログ

【読書録】現代日本のリアリティ/アイデンティティ-『社会学入門 人間と社会の未来』見田宗介-

以前のエントリでは、見田宗介さんの『社会学入門 人間と社会の未来』から、現代の日本社会をみる3つの時代区分をまとめました。

 

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日本では、高度経済成長期を通して農村共同体が解体され、家族のかたちは拡大家族から核家族になっていったと。

 

今回は、そのことが個人のアイデンティティやリアリティにおよぼす影響について、前回と同じく社会学入門 人間と社会の未来』から読み解いて行きます。

 

キャリアは”自分探し”ということばで語られることもあるように、アイデンティティやリアリティと密に関わっています。現代のキャリアを考える時に、現代人のアイデンティティやリアリティのありようを理解しておくと、”なぜぼくたちがこのようなキャリアを望むのか、あるいは望まないのか”を理解するための補助線となるはずです。

 

それでは、ポイントとなる部分をまとめていきましょう。

 

家郷喪失者の誕生

 

さきほども書いたように、1960年代に高度経済成長期がはじまると、農村共同体が解体・再編成され、多くのひとびとが新しい労働力として都市に流れこみました。こうした、「農村」という家郷=ふるさとをうしなった「家郷喪失者」の孤独と不安を推力として、社会の高度近代化が押し進められていった、と見田さんはいいます。

 

「家郷」は、そこで生活を営む個人にとって2つの意味を持っていました。

 

・生活の共同体:人間の生の物質的な拠り所

・愛情の共同体:精神的な拠り所

 

です。

 

たしかに農村では、出産や婚礼、防災や葬式など、生活にかかわるさまざまなことがらを助け合う仕組みがありました。また、親と結婚した子ども家族など親族が同居する拡大家族は、精神的な支えとなりました。農村を出て、都市に流入した家郷喪失者は、このふたつの意味あいをもつ共同体を、あらたに獲得しなければなりませんでした。

 

近代市民社会の二重の戦略

 

 近代の市民社会の古典形式(つまりこの時代の社会のシステム)は、この二重の要請を<核家族市場経済システム>によって満たします。

 

まず、第一次共同体のもった人間の「人間の生の物質的な拠り所」としての側面を、「市場のシステム」として”開放”しました。農村が担っていたさまざまな機能ー婚礼や防災や医療や年忌や建築などなどーは、市場から調達されるものとなりました。

 

また、人間の生の「精神的な拠り所」としての側面は、「近代核家族」として”凝縮”しました。農村では親族や、ときには近隣のコミュニティまで、精神的な拠り所とされていたでしょうが、都市では拠り所となるのは配偶者やこどもといった家族に限定されていきます。

 

二重の戦略の矛盾

 

 こうした二重の戦略は、近代核家族が市場システムの生産的な主体である「近代的自我※」を生み出すという意味で、見田さんいわく「見事な戦略」でした。

 

※説明がむずかしいですが、ざっくりといえば、自分自身を共同体から独立した存在として考える考え方。

 

しかし一方で、この二重の戦略は矛盾をかかえています。愛情の共同体である近代核家族によって産出された近代的自我は、産出するもの(近代核家族)の否定に向かう傾向を内包していたのです。(近代的自我は、”わたし”という存在を家族という共同体からすら独立したものとして考えるようになる、ということでしょう)

 

<親密なもの>の濃縮と散開

 

こうした状況が、ひとりの人間のアイデンティティ/リアリティに対して引き起こすのは、「<親密なもの>の濃縮と散開」です。

 

日本の近代市民社会の創成期には、さきほども書いたように農村共同体の解体によって開放された<親密なもの>の濃縮として、愛がただひとりの異性に向けて向けられました。見田さんはその例として、1960年代初頭を代表するヒット曲「アカシアの雨がやむとき」では青春の切実な問い(自分が死んだら、”あの人”は涙をながしてくれるのか)がただ一人の”あの人”に向けられていると指摘します。

 

一方、1999年にカラオケボックスで18歳という若さで自死したネットアイドル南条あやは、死の前日に4つの断章をメールで配信しました。「私が消えて 私のことを 思い出す人は 何人いるのだろう…」。また、翌2000年には17歳の犯罪が多発します。その特徴は、対象の任意性、不特定性、動機の非条理性でした。

 

この2つの例にあらわれているように、1960年代初頭の近代市民社会の創成期から、1990年代後半〜2000年代に入り近代市民社会が解体してくると、「社会の親密圏/公共圏をめぐる構図の、知覚の転変と正確に照応(115頁)」しながら、「自己の存在の『証し』をめぐる切実な問いの方向(115頁)」は転回する。

 

農村という第一次共同体をうしなった個人は、ただ一人に愛着をみいだす。やがて、家族という共同体をうしなった個人は、不特定多数に愛着を見出す。こうした様相を、見田さんは「<親密なもの>の濃縮と散開」ということばであらわしました。

 

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以上、社会学入門 人間と社会の未来』のポイントを簡単にまとめました。

 

<親密なもの>が散開し、不特定多数に<親密なもの>を求めるようになると、まさに相手が「不特定」、そして「多数」であるがゆえに個人のアイデンティティも不安定なものになってしまう危険性があるでしょう。

 

そうしたアイデンティティが不安定な状況にあるひとにとって、「仕事」とはどういう意味合いを持つものになるのか。「仕事とアイデンティティ」の関係については、あらためて考えてみたいと思います。