求職活動がもたらすアイデンティティへの影響とは?-『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』見田宗介-
”はたらく”ということは、ときに自分の存在の証明となり、ときに自分の存在の否定ともなります。
たとえば就職活動のときには、企業が求めるような履歴書を書くことが大切になります。が、まっさらな履歴書を前にして「なにも書けることがない。自分はダメな人間なのだろうか…」と憂うつな気持ちになる…僕にはそんな経験をした覚えがあります。
いったいあの、「自分はダメな人間なのだろうか」という憂うつは何なのか。その出所を示してくれるのが、社会学者見田宗介さんの『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』です。
見田さんはこの本で、1968年から1969年にかけて無差別殺人を犯した19歳の青年N・Nを分析対象として、60~70年代の日本社会の階級構造と、それを支える個人の生の実存的意味を明らかにしています。
今回はこの『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』から、求職活動がもたらすアイデンティティへの影響を考えてみましょう。
注目ポイント
『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』で僕が注目したのは、次のようなポイント。
・1960年代以降、農村共同体の解体が解体され、農村は都市へ労働力を供給し続ける場所となった。(17頁)
・農村を出た若者は、農村のしがらみからの開放への希望、つまりひとりの人間として「尽きなく存在する」希望を抱いて都市に出る(19頁)
・一方で、都市が要求するのは青少年自身ではなく「新鮮な労働力」、言い換えれば金を生む「金の卵」にすぎない。(19頁)
・若年労働者を「金の卵」と捉える都市の論理にとって、この物質に着いてくる「自由=存在」は”招かれざる客”(21頁)
・若年労働者がわからすれば、「金の卵」として見られることは自らの自由をからめとり、限界づける「他者たちのまなざしの罠」に他ならない(22頁)
・「都市のまなざし」とは、服装・容姿・持ち物などといった具象的な表相性にしろ、出生・学歴・肩書きと言った抽象的な表相性にしろ、ある表相性においてひとりの人間の総体を規定し、予科するまなざし(40頁)
・人間の存在とは、社会的にとりむすぶ関係の総体に他ならないが、これらの表相性へのまなざしは、都市の人間がとりむすぼうとする関係を偏曲させ、都市の人間の存在をその深部から限定してしまう(41頁)
・若年労働者が自由な主体として「尽きなく存在」しようとするかぎり、こうした「他者たちのまなざし」こそ地獄(41頁)
考えたこと
この本で分析されているのは、60~70年代の日本です。しかし、この本で書かれている問題の構造は、ちょうど僕がまっさらな履歴書を前にして感じた憂うつな気持ちと同じものであるような気がします。
つまり現代の求職活動おいても、仕事を通じて自分らしい人生を実現したいという個人と、個人を労働力つまり「金の卵」としてみる組織とのあいだのズレは存在しているのではないでしょうか。
求職活動を通して、多くの場合個人は組織が求める「金の卵らしさ」、つまり高い学歴やバイトで粘り強く働いた経験や海外でのボランティア活動などをアピールすることが求められます。
それらが自分にはないと感じられた場合、あるいはあったとしても自分らしさをあらわすことがらではないと感じた場合、「金の卵らしさ」を演じることは個人のアイデンティティに裂け目を生み出します。僕がまっさらな履歴書を前にして感じた憂うつも、そのように「自分を金の卵として魅せなければいけないことへの違和感」が根っこにあったのでしょう。
違和感がありつつ、「金の卵らしさ」を徹底的に演じきれる人もいます。一方でやはり、演じることができずに傷つくひともいます。後者の、「自分らしく働きたい」という思いを損なうことのない求職活動のありかたはどのようなものなのか。またあらためて考えて行きたいと思います。