キャリアの物語をつむぐ

働きかた編集者 山中康司のブログ

フリーランスになって、”人生に問われる”ようになった話

そもそも
我々が人生の意味を
問うてはいけません。

我々は人生に
問われている立場であり

我々が人生の答えを
出さなければならないのです。

 

僕たち人間は、人生から意味を問われているのだ--。オーストリアの精神医学者、ヴィクトール・E・フランクルはそう語りました。

 

フリーランスになって1ヶ月ほど。僕が最近感じているのは、「フリーランスは、問われる存在なのだ」ってことです。

 

「お前は何者なのだ」と。「お前の人生の意味はなんなのだ」「お前はまわりにどんな価値を与えることができるんだ」と、問われるんですね。人生から。

 

肩書きは、印籠のようなもの

 

たとえば、僕は大学院は東大に行っていたので、当時は「東大生なんですよね〜」といえば「え、ほんとですか!?」っていう反応があって、「いやいや、たいしたことないんですけどねぇ」とか言いながら、ちょっと鼻高々で、まんざらでもない気持ちでした。いやはや、みっともない話ですが。

 

だから「自分は何者なのか」なんて、考える必要なかったんですね。東大生っていう肩書きでもって、自分のアイデンティティがまもられていたんです。

 

そう、当時の僕にとって東大生という肩書きは、水戸黄門の印籠みたいなもの。その印籠を見せれば、周りは「あぁ、東大生の山中くんね」と納得してくれる。たとえ自分の中身が空っぽだったとしても、です。

 

フリーランスになって、人生に問われるようになった

 

が、フリーランスはそうはいかない。印籠のなくした黄門様を想像してください。「ひかえおろう!ひかえおろう!」って言われても、「なんでこんなニセモノかもわからん爺さんに頭を下げなきゃいかんのか、さっぱりわからん」ってなりますよね。

 

今の僕はそんな、印籠のない黄門様になった気分なんです。誰もが納得してくれるような”印籠的肩書き”は、僕にはもうない。自己紹介でフリーランスで編集者をやってる山中です。」と言っても、「あぁ、そうなんですか…」で終わってしまう。

 

そんなふうに、寄りかかれる肩書きがなくなったとき、「自分って、何者なんだろう」「自分の人生って、どんな意味があるのだろう」って、考えるようになったんです。

 

フランクル的に言えば、「人生が自分に問いかけている」ということですね。

 

それに、フリーランスは選択の連続。もし会社員であれば、朝何時に出社して、どんな仕事をして、お給料はいくらで、何時まで働いて…など、ある程度会社側が決めてくれます。極端な話、自分は決めてもらえるのを待っていればいい。楽チンです。

 

それがフリーランスになると、それこそ今日何時から仕事を始めるのか、どこで仕事をするのか、この仕事でいくらいただくのか、誰と働くのか…あらゆる場面で選択が必要になります。そうすると、「自分は何者なのか」「人生の意味はなんなのか」を問わないことには選択ができないんですよね。シンプルな例で言えば、自分は「ワーク」を大事にする人間なのか、「ライフ」を大事にする人間なのかで、朝起きる時間から付き合う人から引き受ける仕事まで違ってくるはず。

 

だから、何度も何度も選択をするたびに、「自分は何者なのか」「人生の意味はなんなのか」と問われている気分なんです。

 

「自分の人生のハンドルを自分で握ってる」感

 

 人生から問われることが嫌かといったら、まぁ確かに大変です。人生の意味なんて言ったら大したものに聞こえるけど、人生を貫く意味なんてそうそう見つかりっこないし。「今はこれかなー」みたいな、現時点での答えのようなものを見つけていく作業の繰り返しです。

 

それは確かに大変なのだけど、生きてる実感みたいなものは社員だった時よりあるかもしれない。なんというか、「自分の人生のハンドルを自分で握ってる」感、とでも言いましょうか。

 

逆にもし、なーんにも問われないまま、スーっと人生を滑るように生きていった先に待っている景色は、あんまり面白いものじゃないんじゃないかな。

 

問われて、考えて、問われて、考えて…その繰り返しの中で、100歳で息をひきとる瞬間に「そうか!俺の人生の意味ってこれだったんだ!」ってわかるのかもしれないし、やっぱわからないのかもしれない。

 

でもそんな人生もアリじゃないかな。パズルは完成したあとのものを眺めるより、完成に向けてあれやこれや試行錯誤するのが楽しいのであって。それと同じで、人生からの問いに答えようともがき続ける、その過程こそが、味わい深いんではないかなーと思うのです。