キャリアの物語をつむぐ

働きかた編集者 山中康司のブログ

「働く」と「アイデンティティ」

20歳から25歳くらいまで、働けない時期がありました。働くことがすごく怖かったんですね。

 

もうちょっと詳しく言うと、「賃労働で発生する、お金を介したコミュニケーション」が幽霊より雷より怖かったのです。

 

俺はなにもできない、価値のない人間だ

 

当時セブンのバイトをしていたのですが、レジに立つと動悸が早くなるわ、汗はだらだらかくはで大変なんです。だから僕が好きだったのは、裏でフライヤー(チキンを揚げたりするやつです)を掃除する仕事。それをしているうちは誰の目にも触れなくていいですから、楽なんです。

 

でも、だからってずっと裏でフライヤーを掃除してるわけにはいかない。お客さんがきたらレジに立たなきゃいけないわけで、その度に焦ってミスをする。ミスをするからもっと焦る…という悪循環。

 

結局3ヶ月くらいしか続かなくて、辞めちゃいました。「俺はコンビニのバイトすらできないのか」って愕然として。「俺はなにもできない、価値のない人間だ」って自信をなくしてました。

 

いや、自信をなくしてた、と言うとちょっと状況を十分に伝えきれていないかもしれない。「もう生きていってもしょうがないな」くらいは思ってました。ほんとに。

 

「働く」と「アイデンティティ

 

そのときに強く学んだのは、「働く」と言うことと「アイデンティティ」は強く関係しているんだな、ということ。

 

なぜなら、「働く」ということはお金を稼ぐ意外に、「他者と関わる」という役割も持っています。「働く」が「傍(はた)を楽(らく)にする」ことだとはよく言われますし、マルクスも「人間は労働を通して社会的存在になる」と言っています。

 

そして、G.H.ミードが自我は他者とのコミュニケーションを通してつくられると言ったように、「アイデンティティ」の形成にとって他者との関わりは欠かせません。

 

これらをふまえると、働くことを通じて他者と関わることは、個人のアイデンティティをつくるうえで非常に大切になってくるといえそうです。

 

そして、とても重要なことは、僕がそうであったように、「働くことができない」という状況は個人のアイデンティティを危機に追い込むことがあるということ。

 

ニートの若者に対して、「働かないのは怠けているからだ」といった自己責任論を振りかざす方もいますが、働けないことというのがキリキリと一人の人間の心を締め付けていくことがある、ということは頭の片隅に置いておいて欲しいと思います。ただでさえ苦しんでいる人に対して、他者がダメ押しをするのはあまり褒められた行為じゃありません。

 

働く機会づくりを通じたインクルージョン

 

「働く」と言うことと「アイデンティティ」は強く関係している。ということは裏を返せば、働く機会を生み出すことは、個人が「自分らしさ」を感じながら生きる機会を生み出すことにつながるはずです。

 

それっぽい言葉で言うと、働く機会の創出を通じた「ソーシャルインクルージョン」でしょうか。

 

「全ての人々を孤独や孤立、排除や摩擦から援護し、健康で文化的な生活の実現につなげるよう、社会の構成員として包み支え合う」という理念

(引用:障害保険福祉研究情報システム:ソーシャルインクルージョン

 

たとえば、徳島県上勝町の「葉っぱビジネス」は、地域のおばあちゃんたちの働く機会を生み、生きがいを作り出した事例ですね。

 

www.nikkeibp.co.jp

 

ソーシャルインクルージョンは障害のある方や高齢者、子育て中の方や難民、ニートなど、限られた方を対象とした考え方ではなく、すべての人を対象にした考え方だと僕は思っています。

 

個人のキャリアを支援する人間としては、自分が支援に関わった方が仕事と出会うだけでなく、その仕事を通して自分らしく、笑顔で働けている姿を見たとき、なににも変えがたい喜びを感じるのです。