【映画から考えるしごと論】人生”追われてる感”、”追われてない感”の違いについて-『人生フルーツ』-
以前読んだ時間管理術に関する本で、びっくりした箇所があった。
著者は、ご飯のときに「ご飯をよそう」「皿を重ねて片付ける」みたいなことまで、何分何秒かかるかを見積もって、タスク管理表に書いて管理しているのだという部分。「うげぇ、ホントかよ」と唖然としたのを覚えている。(めっちゃうろ覚えだから、違ったらごめんなさいだけど)
そこまで極端ではないまでも、僕も割ときっちりとタスク管理をしているほうである。タスク管理用のwebサービスを使って、15分刻みくらいで「メール処理」とか「記事の構成を考える」とかいったタスクを書いて、終わったらチェックをつけている。
そんなふうにきっちり時間を管理しているのだけど、なんだか自分の時間を生きている感覚がないのだ。なんと言えばいいのかわからないのだけど、タスクに追われている感じがする。プライベートでも、流行に追われている感じがする。
この”追われてる感”、どこから来るんだろうか。
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先日、友達にすすめれられて『人生フルーツ』というドキュメンタリー映画を観たら、もう超感動してしまった。戦後数々の住宅、団地、ニュータウンの造成に関わり、自らも愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンに暮らす津端修一さん90歳と、妻の英子さん87歳の夫婦の暮らし、そして人生を追った物語。「あぁ、こんな夫婦になりたい」って心から思えるようなあたたかい映画だ。
この夫婦、”追われてない感”がすごい。
家庭菜園や果実の木々でいっぱいの庭で、枝に頭をぶつけて怪我した頭のてっぺんに、英子さんにマキロンぬってもらってる、いかにもほんわかした好々爺の修一さん。だが、実はかつて高蔵寺ニュータウンの設計を任された一流の建築家である。
高度経済成長期に、増大する都市人口の受け皿として各地でニュータウンが造成された。経済優先の当時、いかに小規模の土地に多くの人を居住させるかが最優先事項で、高蔵寺ニュータウンも例外ではない。
しかし日本住宅公団の創設期の中心メンバーだった修一さんの基本設計は意外なものだった。自然の地形を生かして建物を配置し、建物の間には雑木林があり、ニュータウンの間を風が吹き抜ける--。修一さんは、”いかに精神的に豊かな生活ができるか”を優先してこのニュータウンを設計したのだった。
しかしこの設計は、経済を優先させる時代の流れのなかで実現せずに終わる。しかしそれならばと、修一さん・英子さん夫婦は高蔵寺ニュータウンのなかに構えた平屋の自宅の庭に雑木林を設け、野菜や果実を育てた。「ひとつひとつの家が庭に林を持てば、豊かな環境は整う」と。
それから40年。2人は自分たちのペースで暮らし続けている。
その象徴が、2人があまりものを買わないことだ。英子さんがつくる料理を彩る野菜や果物は、自宅で採れたもの。なんと、約100種類もの野菜や果実が育っているそう。魚や肉や自宅で採れなかった野菜は、月に一度、何十年も通っているスーパーでまとめ買いして冷凍保存。買ったものを食べたら、どんな料理にして、どんな味だったかを、修一さんがかわいらしいイラストつきの手紙にしたためて送るという、丁寧なコミュニケーションも欠かさない。(ちなみに「コンビニには行ったことがない」と英子さんはいう。)
鍋などは40年もの。つまり引っ越してからずっと同じものである。孫がシルバニアファミリーの家が欲しいと言ったら、「プラスチックは良くない」と言って、修一さんがでかいやつを作っちゃう。
そんな2人の暮らしの様子は、すごくゆっくりとしている。僕の”追われてる感”のある暮らしとはえらい違いだ。
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宮崎県日南市役所でマーケティング専門官を務める田鹿 倫基さんは、ブログのなかで「日本国内に存在する経済活動のパターンは『貨幣経済』『物々交換経済』『貸し借り経済』『自給経済』の4つ」であると言っていて、なるほどなぁと思った。
「貨幣経済」「物々交換経済」「貸し借り経済」「自給経済」は、それぞれ次のようなものだという。
・ 貨幣経済・・・・・貨幣を介して商品やサービスが提供される一般的にイメージされる経済。
・ 物々交換経済・・・農家と漁師が野菜と魚を交換するといった物々交換から生まれる経済。
・ 貸し借り経済・・・誰か大事な人を紹介してくれたとか、トラブルに遭遇したときに助けてくれたとか、「恩」に紐づく貸しと借りで成り立つ経済。世代を超えて家系で引き継がれていくこともあり、「彼のおじいさんには大変お世話になったから、彼にはなんでも協力しろ」みたいに100年単位で続くこともある。
・ 自給経済・・・自分の家で畑を持っていて作物ができるとか、家で味噌や醤油を作っているとか、物を購入しなくても自給でまかなえる経済、というものです。
そして、「地方に行けば行くほど経済のパターンが複数化し、安定したポートフォリオが組めるようになる」と付け加えている。
なるほど、この考え方でいうと、修一さん・英子さん夫婦は、自給経済8割、物々交換経済1割、貨幣経済1割のようなポートフォリオで暮らしていた。一方僕は、貨幣経済が9割9分だ。(この前陶芸にチャレンジして器をつくったから自給経済も1分はあるかもしれない)。
ここが”追われてる感”、”追われてない感”の違いなんじゃないか。
僕は貨幣経済の時間の流れに乗って生きている。シーズンごとに流行がつくり出され、山手線は分刻みのスケジュールで労働者たる僕を運び、移り変わる株価に一喜一憂してたりする。お金という実態がないものの動きに国境も昼夜も春夏秋冬も関係ないから、そのスピードに追われている感が拭えない。
一方、修一さん・英子さん夫婦がいる自給経済の世界で流れているのは、自然の時間だ。
『人生フルーツ』で繰り返し語られる言葉がとても象徴的。
風が吹けば、枯葉が落ちる。
枯葉が落ちれば、土が肥える。
土が肥えれば、果実がみのる。
こつこつ、ゆっくり。
(引用:作品解説 | 人生フルーツ)
自分たちが食べるものを自分たちで育てている修一さん・英子さんは、そんなゆったりとしたサイクルのなかで生きている。僕が映画から感じた”追われてない感”は、そこからきているようだ。
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「貨幣経済」「物々交換経済」「貸し借り経済」「自給経済」、どれが一番良いということはないはず。ただ、僕なんかは「貨幣経済」のなかでどうやって稼いでいくかっていうことをなんの疑いもなしに考えていて、ちょっと息苦しくなっていたから、修一さん・英子さん夫婦の暮らしに触れて、ずいぶん楽になった。
2人のような、8割自給の暮らしまでいかなくとも、いくらか自分の生活のなかに自給経済を取り入れて、自然が持つ時間の流れを持つことで、”追われてる感”は和らいでいきそうだ。自分がいちばん幸せを感じる、「貨幣経済」「物々交換経済」「貸し借り経済」「自給経済」のバランスはどんな塩梅なのか。ちょっと立ち止まって考えてみよっと。
キャリアはお金抜きには語れない
自分が望む人生を送ろうと思ったら、いくらお金が必要なのか知っておくことは、キャリアを考えるうえでとてもよいこと。というか、それなしにキャリアを考えることはできないと思う今日この頃。
例えば「年収1000万円稼ぎたい。そのために大企業に入って出世したい」と思っている人がいるとする。でも、その人も自分の望むキャリア(ライフも含めた人生プラン)を明らかにしたうえで、じゃあそのプランを実現するためにいくら稼ぐことが必要なのかということを細かく計算していくと、「実は年収500万円でいいのだ」ということに気づくかもしれない。
年収500万円でいいのなら、必ずしも大企業に入らなくてもいいかもしれないし、入ったとしても出世レースをがむしゃらに疾走しなくてもいいかもしれない。
そんな風に、
(1)自分が望むキャリアを明確にしたうえで、
↓
(2)そのためにはいくら必要なのかを計算し、
↓
(3)その金額を稼ぐためにどう働くのかを考える
というステップは、自分のキャリアデザインをより実現可能なものにするためにとても大切なのだ。
逆に言えば、(1)をすっとばして(2)にいくことはできない。(1)がないと、「なんとなく1000万円稼ぎたい」と稼ぐことが目的になったり、「とりあえず大企業に入りたい」といった気持ちをうまく解きほぐしてくれる。
僕の場合、「高くて安定した収入を得るために、大企業に入りたい」なんて気持ちを少なからず持っていたけれど、ファイナンシャルプランナーと一緒にもろもろ計算したところ、今は月30万円稼げばじゅうぶん望むような生活ができることがわかった。
こんな感じで、何歳までにいくら必要で、そのために今いくら必要か、ということを紙に書いていった。32歳で結婚、子供は2人、男女一人ずつ。結婚資金は100万円が自己負担……など細かく出していって、何歳までにいくら稼いでいる必要があるのかなどを考えたのだ。
そうしてみると、「稼がなきゃ!」と漠然と思っていたことが、具体的に何歳までにいくら稼いで、ということが明確になったので、キャリアプランも具体的に見えてくるようになった。さらに、大企業に行きたいというのは本当は収入が高くて安定しているからではなく、”そっちの方がモテそう”という青臭い動機が根っこにあったのだと気づきました。だって、本当のところそんなに稼ぐ必要はないのだから。
こうした計算は、例えば子供の養育費がいくらかかるとか、社会保障どうするとか、何歳で保険に入るとどうなるとか細かいことを考える必要があるので、それが苦手な方はファイナンシャルプランナーなどに相談してみるといいと思う。もちろんファイナンシャルプランナーによって当たり外れはあるだろうけれど、少なくとも僕の場合はとても助かったなぁ。
キャリアコンサルタント試験結果を受けて。勝って驕らず負けて腐らず
【読書録】21世紀に生きる僕らは、なぜ働くのか?ー『WORK SHIFT』リンダ・グラットン著 池村千秋訳ー
働き方が変わりつつある。
それは今、政府が進めている働き方改革に象徴されるけども、なにも日本に限ったことじゃない。グローバル化、ICTの発達、人口構成の変化などにより、世界的な流れになっているのだ。
リンダ・グラットンの『WORK・SHIFT』は、そうした世界的な流れがなぜ起こっているのか、どのような結果に行き着くのか、また個人はどのように振る舞えばいいのかなどをまとめた一冊。
今日はこの話題作から、特に大事な「ライフスタイルのシフト」に焦点を当てて考えてようと思う。
働くのは、充実した経験をするためだ
「なぜ僕たちは働くのか」。この問いに対する答えは、これまで「お金を稼ぐため」という答えが主流だった。働いて、お金を稼いで、たくさん消費をするー。これが、人々が幸せになるための方程式のようなものだったのだ。
しかしリンダ・グラットンは、こうした幸せの方程式が変える必要があると指摘する。
「大量消費を志向するライフスタイルから、意義と経験を重んじるバランスのとれたライフスタイルへの<シフト>」(68頁)を実現しようという。
その背景には、お金を稼ぐことが必ずしも幸福につながらないことがわかってきた、ということがある。収入が増えるほど、贅沢なライフスタイルに慣れてしまって、多少のことでは幸せを感じなくなるという、経済学でいう「限界効用の逓減」がうまれる。
こうした難しい言葉は知らなくとも、お金を稼ぐことを目指してがむしゃらに働いてきた上の世代の人生を見ていて、「お金を稼ぐことが必ずしも幸福につながらない」ということを感覚として身につけている世代が労働者の多くを占めるようになってきている。
また、テクノロジーの変化に伴い、人々が本人の望み通り行動するチャンスが生まれ始めている。
これらのことから、「お金を稼ぐためでなく、充実した経験をするために働く」という価値観が広がっていく、とリンダ・グラットンは言っているのだ。
自己概念の発達が不可欠
実際に、新入社員の働く目的を調べた調査では、2000年以降、「楽しい生活をしたい」とする者の割合が大きく上昇し、逆に「経済的に豊かな生活を送りたい」とする者の割合は低下傾向になっている。「働くことに関する最近の若者の意識は、経済的な側面よりも、自分自身が『楽しく』生活できるかどうかという点を重視していることが分かる。」と調査では述べられている。
(参考:「平成25年版 厚生労働白書」)
ただ、この「充実した経験をする」「楽しい生活をする」というのは、簡単なことではない。充実すること、楽しいことは一人ひとり異なるからだ。「お金を稼ぐためでなく、充実した経験をするために働く」時代が訪れるということは、一人ひとりが「自分にとって、なにが充実した経験なのか」ということを自覚しておく必要があるようになるということだ。
そのうえでとても重要になるのが、「自己概念の発達」ということ。
「自己概念」とは、自分で自分のことを捉えたイメージのこと。つまり「自分は何者であるか」というイメージだ。
米国のキャリア研究家であるドナルド・E・スーパーは、キャリアディベロップメント(職業的発達)において最も重要な要素はこの自己概念であるとし、個人は職業選択を通じて自分の「職業的自己概念」を実現しようとする、とした。
「職業的自己概念」は、「自分はなにが得意か」「なにがしたいか」「なにに意義を感じるか」といった、仕事に関する自己概念のこと。この職業的自己概念が肯定的・明確である時、個人は正しい職業選択を行うことができ、否定的・不明確である時、誤った職業選択をしてしまう、という。
リンダ・グラットンのいうように、「お金を稼ぐためでなく、充実した経験をするために働く」ためには、この職業的自己概念を肯定的かつ明確にしておく必要があるのだ。
これが意外とむずかしい。自分のことは自分が一番知っているようで、実は知らないこともたくさんあったりする。
そのため、キャリアコンサルタントに相談することであったり、リンダ・グラットンも指摘するように信頼できるコミュニティに所属し、自分の悩みなどをさらけ出してフィードバックをもらう、といったことが必要になるはずだ。
そうした場や機会は、あまりない、もしくはあるけれど知られていないように思う。どうやって、誰もがはたらくということについて考え、語り合える場を作っていくのか。例えば、以前話題になった弁護士バーのように、キャリアコンサルタントがバーテンダーになるバーがあっても面白いかもしれない。
とにかく、キャリアについて考える機会をもっと身近にしていきたいと思っている。
文化としての仕事という構想
先日編集者の河尻亨一さんのお話を伺っていて、「文化としての仕事」という言葉があった。「これ、すごく可能性がある言葉かも!」と思ったので、僕なりの解釈をちょっとまとめてみる。
文化とは
そもそも文化という概念があいまいなので調べてみる。
辞書的は意味だと、次のようなものになるらしい。
1 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」
2 1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。
3 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」
「文化としての仕事」といったときの「文化」は、2の意味になりそうだ。つまり、人間の精神活動およびその所産としての仕事、ということ。
…って言われても、ちょっとわからん。
僕が「いいな!」と思ったニュアンスとしては、「カルチャー」という意味合いが強いかな。ファッションや音楽といったカルチャーと同列のもの、あるいはそれらのなかでの「仕事」に焦点をあてたとき、これまでとはまったく違った、日本人の仕事像が見えてきそうだなと思うのだ。
文化としての仕事
たとえば、「飲みニケーション」や「メールのマナー」という文化がどのようにかたちづくられてきたのか。また、今どのように行われていて、これまでどのように変遷してきたのか。
あるいは、音楽や映画で、仕事がどう描かれてきたのか。(『プロフェッショナル 仕事の流儀』と『舟を編む』とか、昔から仕事に関する作品はたくさんある。)そういったことを、まるでファッションのスタイルをそうするかのように追っていく。
そうすると、これまで語られてきた仕事論とはちがった角度から、仕事の像を描き出すことができるんじゃないのかな。
仕事を文化として捉えることの可能性
これまでの「仕事論」は、比較的「どれだけいい仕事をするか」とか「プロフェッショナルとはどんな人か」とか、どこか”あるべき仕事像”があって、その上位にいる人が取り上げられがちだ。でも、仕事を文化として捉えることで、”あるべき仕事像”を相対化して、今ある仕事の姿かたちをフラットな視点で、捉え直すことができそうな予感がしてる。
まだ構想段階で、はたしてこれがかたちになるのか、なるとしたらどういうものになるのかわからない。もしかしたら、というかおそらくすでに、文化として仕事を捉えた研究や論考はあるのだろうな。
なにか知っているのもがあったら、ぜひ教えてください!
僕はプロフェッショナルにはなれないと気付いた話
『プロフェッショナル 仕事の流儀』が好きだ。
プロスポーツ選手や料理人や企業家など、ある分野で一流になった人たちを紹介する、言わずと知れたNHKの人気番組。この番組を観て「よし! 自分もいつかはプロフェッショナルになったるで!」と考えた人は僕だけじゃないはず。
でも、最近気付いてしまった。
「僕は、プロフェッショナルにはなれないかもしれない」
漫画『シャーマンキング』で主人公の父幹久が言っていたように、大人になると自分の成長の限界が見えてくる。プロフェッショナルと呼ばれる人物はすべからく、プライベートを犠牲にしてまでとてつもない努力をしているのだと思うけれど、僕にはそんな努力はできないな、なんて思ってしまう。
だって土日はしっかりお昼くらいまで寝たいし、できることなら毎日縁側で猫と戯れて、晴耕雨読で暮らしたいもの。こんな発想でいる人間が、プロフェッショナルになれるほど世の中甘くない。
ただ一方で、こんなふうにも思う。周りからの評価と、本人の幸福感はかならずしも一致しないんじゃないかと。
もちろん、プロフェッショナルと呼ばれる人が幸福でないというわけじゃない。でも、プロフェッショナルにならなければ幸福になれないわけじゃないはずだ。
思うに、「いつかはプロフェッショナルになったるで!」的発想の自分は、周りからの評価を気にしていたように思う。周りから、「すごいねー、プロだね! 」と言われるようになりたいと。でもたぶん、それって本質的じゃない気がしてきたのである。
「自己概念」という考え方
心理学には、「自己概念(concept of self)」という考え方がある。カウンセリングの祖、カール・ロジャースの概念で、「自分はこういう人間だ」とか「こういう人間っていいな」といった、自分に対するイメージのこと。この自己概念と経験(experience)が一致している状態を、ロジャースは「自己一致」と呼び、健全な状態とした。
さらに、ドナルド・E・スーパーは、個人は仕事を通じて「自己一致」を目指す(「職業的自己概念」を実現する)ということを言った。
みなさんも、自分の「こうありたい」という思いが、実際の今の自分と重なったとき、自分が自分でいることができているような、満ち足りた気持ちになったことはないだろうか(僕はある)。幸福感を得るうえで大事なのは、周囲から評価されることではなく、自分が思い描く「こうありたい」自分と、実際の自分が重なっていることなのだ。
そうなってくると、まずは自分が思い描く「こうありたい」自分を明確にする、という作業が必要になってくる。就活の時にやる自己分析ってやつだ。これがなかなか難しい。どうやってこの難しい自己分析をやるのかという話は、またあらためて。
【読書録】生活をおもしろがるという視点ー『そして生活はつづく』星野源ー
「キャリア」と聞いて、どんなことを思い浮かべるだろうか。
多くの方が、「職歴」をイメージするかもしれない。たしかに僕自身が受けてきた「キャリア教育」や「キャリアデザイン」の講座なんかでいう「キャリア」は、仕事にひもづくものだった。
「キャリア=職歴」ってわけでもない
でも、実際のところ僕らの人生って、仕事だけしてればいいわけじゃないではないですか。どんなに忙しい社長も、スポーツ選手も、大学教授も靴磨き職人も、家に帰れば生活があるわけで。あるいは休日には趣味を楽しんだり、通信講座で資格の勉強をしていたりする。
つまりなにが言いたいかというと、「キャリア=職歴」と考えてしまうと、キャリアについて考えることの射程範囲は、ずいぶん狭いものになってしまうのよなぁ、ということを、ぼんやりと思っていたわけです。
「生活」を発見した星野源さん
ところで最近、星野源さんが気になっている。なんで気になるのか不思議だったので、この前の休日になんとなく本屋で見つけた源さんのエッセイを手に取ってみた。
『そして生活はつづく』は、星野源さんが2013年に出版した初のエッセイ集 。そのテーマは、「つまらない毎日の生活をおもしろがること」。
仕事の虫だった源さんが、なぜ「生活をおもしろがること」を意識するようになったのか。その理由がまた、すごくよいのだ。
源さんは、ある時働きすぎて、過労で倒れてしまう。その時に、次のことに気付いたそうだ。
「私は生活が嫌いだったのだ。……ただ仕事を頑張っていれば自分は変われるんだと思い込もうとしていた。でも、そこで生活を置いてけぼりにすることは、もう一人の自分を置いてきぼりにすることと同じだったのだ。」(29頁)
仕事に生きていた源さんは、過労をきっかけに「生活」を発見して、自分の人生のなかでその意味づけを変えていこうとしたのだ。
スーパーの「ライフキャリアレインボー」とは
キャリアに関する理論のなかで、1950年代にドナルド・E・スーパーが提唱した「ライフキャリアレインボー」というものがある。
ライフキャリア・レインボーの理論では、キャリアをさまざまな役割(ライフロール)の組み合わせだとしている。具体的には、息子・娘、学生、余暇を楽しむ人、職業人、市民、配偶者、家庭人といった役割が組み合わさり(まさに虹のように)、さらにキャリアの段階によってその比重を変えながら、キャリアは形成される、という考え方だ。(参考:「ライフキャリア・レインボー」とは? - 『日本の人事部』)
源さんの「生活の発見」は、まさにこのライフロールの組み合わせを、職業人ばかりだったのから家庭人、あとは余暇を楽しむ人などの比重を高めていったということだ、と受け取れるんじゃないだろうか。
これは偏見かもしれないけれど、日本人の多くは、「キャリア=職業」というステレオタイプを持っていたように思う。でも、ちょっと前の「ていねいな暮らし」ブームや周りの人の話を聞くにつけ、そうした日本人の一定割合が、最近星野さんのように「生活の発見」をしているんじゃないかとも思う。つまり日々の暮らしを大切にする方向にシフトしつつあるのだ。
「生活をおもしろがる」
源さんの「生活をおもしろがる」という視点は、すごく大事にしたいなぁ。個人的には、仕事だけの人生は歩みたくないし。生活を含めたキャリアデザインをしなきゃ。
……なんて、そんなことを考えるきっかけを与えてくれる、源さんのエッセイに感謝。