求職活動がもたらすアイデンティティへの影響とは?-『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』見田宗介-
”はたらく”ということは、ときに自分の存在の証明となり、ときに自分の存在の否定ともなります。
たとえば就職活動のときには、企業が求めるような履歴書を書くことが大切になります。が、まっさらな履歴書を前にして「なにも書けることがない。自分はダメな人間なのだろうか…」と憂うつな気持ちになる…僕にはそんな経験をした覚えがあります。
いったいあの、「自分はダメな人間なのだろうか」という憂うつは何なのか。その出所を示してくれるのが、社会学者見田宗介さんの『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』です。
見田さんはこの本で、1968年から1969年にかけて無差別殺人を犯した19歳の青年N・Nを分析対象として、60~70年代の日本社会の階級構造と、それを支える個人の生の実存的意味を明らかにしています。
今回はこの『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』から、求職活動がもたらすアイデンティティへの影響を考えてみましょう。
注目ポイント
『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』で僕が注目したのは、次のようなポイント。
・1960年代以降、農村共同体の解体が解体され、農村は都市へ労働力を供給し続ける場所となった。(17頁)
・農村を出た若者は、農村のしがらみからの開放への希望、つまりひとりの人間として「尽きなく存在する」希望を抱いて都市に出る(19頁)
・一方で、都市が要求するのは青少年自身ではなく「新鮮な労働力」、言い換えれば金を生む「金の卵」にすぎない。(19頁)
・若年労働者を「金の卵」と捉える都市の論理にとって、この物質に着いてくる「自由=存在」は”招かれざる客”(21頁)
・若年労働者がわからすれば、「金の卵」として見られることは自らの自由をからめとり、限界づける「他者たちのまなざしの罠」に他ならない(22頁)
・「都市のまなざし」とは、服装・容姿・持ち物などといった具象的な表相性にしろ、出生・学歴・肩書きと言った抽象的な表相性にしろ、ある表相性においてひとりの人間の総体を規定し、予科するまなざし(40頁)
・人間の存在とは、社会的にとりむすぶ関係の総体に他ならないが、これらの表相性へのまなざしは、都市の人間がとりむすぼうとする関係を偏曲させ、都市の人間の存在をその深部から限定してしまう(41頁)
・若年労働者が自由な主体として「尽きなく存在」しようとするかぎり、こうした「他者たちのまなざし」こそ地獄(41頁)
考えたこと
この本で分析されているのは、60~70年代の日本です。しかし、この本で書かれている問題の構造は、ちょうど僕がまっさらな履歴書を前にして感じた憂うつな気持ちと同じものであるような気がします。
つまり現代の求職活動おいても、仕事を通じて自分らしい人生を実現したいという個人と、個人を労働力つまり「金の卵」としてみる組織とのあいだのズレは存在しているのではないでしょうか。
求職活動を通して、多くの場合個人は組織が求める「金の卵らしさ」、つまり高い学歴やバイトで粘り強く働いた経験や海外でのボランティア活動などをアピールすることが求められます。
それらが自分にはないと感じられた場合、あるいはあったとしても自分らしさをあらわすことがらではないと感じた場合、「金の卵らしさ」を演じることは個人のアイデンティティに裂け目を生み出します。僕がまっさらな履歴書を前にして感じた憂うつも、そのように「自分を金の卵として魅せなければいけないことへの違和感」が根っこにあったのでしょう。
違和感がありつつ、「金の卵らしさ」を徹底的に演じきれる人もいます。一方でやはり、演じることができずに傷つくひともいます。後者の、「自分らしく働きたい」という思いを損なうことのない求職活動のありかたはどのようなものなのか。またあらためて考えて行きたいと思います。
PROFILE
山中康司 Koji Yamanaka
働きかた編集者。「”働く”をおもしろく」をテーマに、編集・ライティング、イベント企画運営、ファシリテーション、カウンセリングを行う。ITベンチャーにて人材系Webメディアの編集を経験したのち、NPO法人ETIC.で地方の企業と人材のマッチング業務を担当。東京大学大学院情報学環学際情報学府修士課程修了。国家資格キャリアコンサルタント。
【お仕事のご相談は以下まで】
kj.yamanaka1220@gmail.com
【実績】
キャリアの分野で、おもに「書く」「聞く」「話す」の仕事をしています。
・執筆
『シゴトゴト』にて『仕事は人びとを幸福にするか』連載中
仕事旅行社が運営するウェブメディア『シゴトゴト』にて、各分野の識者へのインタビューから仕事と幸福の関係を探る連載『仕事は人びとを幸福にするか』の連載を企画・執筆・撮影しています。
1:夢があったほうが人は幸せ?キャリア教育学者・児美川孝一郎さんに聞いた-仕事は人びとを幸福にするかvol.1-
2:幸福度ランキングは鵜呑みにしない方がいい?青山学院大学経営学部教授亀坂安紀子さんに聞いた-仕事は人びとを幸福にできるかvol.2-
3:働き方改革からすっぽり抜け落ちているものとは?慶應大学前野隆司教授に聞いた-仕事は人びとを幸福にするかvol.3-
4:「幸福を”Be→Have→Do”で考える。」成瀬まゆみさんが語る、働き方に悩んだ時にすべきこと-仕事は人びとを幸福にするかvol.4-
5:「より“土くさく”生きたい」髙坂勝さんがそう語る理由とは?-仕事は人びとを幸福にするかvol.5-
・キャリアカウンセリング
国家資格キャリアコンサルタント所有。人材系NPOでの経験を活かし、主にNPOやソーシャルビジネスに関わるキャリアカウンセリングを行っています。一人ひとりにていねいに向き合わせていただきたいため、基本的に3回(1回5000円)でお受けいたしております。ご相談に関心がある方は、お気軽にお問い合わせください。
・ファシリテーション
・その他
「グリーンズ求人」プロジェクトマネージャー
「一人ひとりが『ほしい未来』をつくる、持続可能な社会」をめざす非営利組織「NPO法人グリーンズ」の求人サービス「グリーンズ求人」に立ち上げから関わり、プロジェクトマネージャーを勤めています。
【読書録】ルールは自由になるためにある-『社会学入門-人間と社会の未来』見田宗介-
これまで、社会学者見田宗介さんの『社会学入門-人間と社会の未来』を何度かに渡ってまとめてきました。
【読書録】現代日本のリアリティ/アイデンティティ-『社会学入門 人間と社会の未来』見田宗介- - Social Career Note
【読書録】現代日本を理解するための3つの時代区分-『社会学入門-人間と社会の未来』見田宗介- - Social Career Note
今回はその最後。見田宗介さんが『社会学入門-人間と社会の未来』で提示する、あるべき社会の構想、<交響するコミューン・の・自由な連合>についてまとめます。
ざっくりまとめると
・われわれの生にとって<至高なもの>と他者にとっての<至高なもの>の解き放ちをどちらも可能にするような関係の形式=<交響するコミューン・の・自由な連合>
⇒つまり、他者は個人にとって歓びのみなもとであり、困難のみなもとでもあることを前提として、自分と他者の自由を損なず、それぞれの歓びを可能にする関係の形式を構築すること、交響を強いてはならない他者たちの、相互の共存のための形式を構築することが必要。
・その構想としての<交響するコミューン・の・自由な連合>を、この章で見田さんは提示している。
われわれの生きる社会の2つの構想
(1)関係のユートピア(交響するコミューン)
・異質な個々人が自由に交響(共にかかわり合う)する空間。個々人の自由の優先のうえに立つ交響だけが望ましい(181頁)
・「歓びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざす」(172頁)
←他者は人間にとって、あらゆる歓びの源泉であることに照応
・個々人が自由に選択・脱退・移行・創出するコミューンたち(182頁)
・交響圏の相互の関係の協定としてのルールによってはじめて現実に保証される(182頁)
・交響するコミューンは家族であることが多いが、単独者でもありうるし、地球の裏側に住むひとりの友人が交響するコミューン内の相手でありうる(190-192頁)
(2)関係のルール
・「人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不安や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確にしてゆこうとする」(198頁)
←他者は人間にとって、生きることの困難と制約の形態の源泉であることに照応
・関係のユートピアたちの自由を保障する方法としてのみ、関係のルールは構築されるべきもの(182頁)
2つの社会構想の構成
・2つの社会構想は、その圏域を異にしている(176-177頁)
関係のユートピア:圏域は限定的(1人〜数十人)
関係のルール:圏域は社会の全体
⇒関係のユートピアの外部に、関係のルールが存在する
・関係のユートピアは、相互にその生き方の自由を尊重し侵さないための協定(契約関係)を結び、ルールを明確化する(178頁)
⇒「<交響するコミューン・の・自由な連合>」(183頁)
・万人が共にルールを作るものであるのが<自由な社会>
(画像引用:見田宗介『社会学入門-人間と社会の未来』191頁)
気づいたこと
”社会のルールは、ひとびとの自由を尊重するためのもの”ということが、ぼくがこの本から学んだ一番大きなことでした。でもいまの社会では、そのルールがあまりにも、権力がある人たちやマジョリティの自由のみを尊重する方向にはたらいているようにも思います。
ルールは、おたがいが自由になるためにも使えれば、既得権益を守るためにも使えるのです。
このブログのテーマに引きつけていえば、「働く」という領域でも、たとえば女性や障がいを持つ人などが自由に働けるためのルールがじゅうぶんに存在しているとは言えないでしょう。
実際問題として、日本の雇用環境のなかでどのようにして見田さんの提示する<交響するコミューン・の・自由な連合>を実現するのか。女性も男性も、正規も非正規も障がい者も健常者も若者も高齢者も、それぞれがそれぞれらしく働くことができる社会をどのように生み出していくのか。
おおまかな方向性としては、ルールづくりにそれぞれの異なる意見を持つ集まり(女性とか障がい者とか高齢者とか)も参加する仕組みをつくることが大事なのではないでしょうか。
たとえば下の記事でも問題提起されているように、非正規社員の声を労組の運動に反映するしくみなどが求められるでしょう。
”それぞれの主体の意見を、はたらくルールづくりに反映するしくみ”については、今後その事例を集めて、いずれまとめたいと思います。
【読書録】『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと<効果的な利他主義>のすすめ』ピーター・シンガー著 関美和訳
取材のための資料として読んだ『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと<効果的な利他主義>のすすめ』が、思いがけずとても刺激的だったので、かんたんにまとめてみます。
ざっくりまとめると
効果的な利他主義とは
・一般的に「科学的根拠と理性を使って、もっとも効果的に世界をよりより場所にする哲学と社会的ムーブメント」だと言われている(15頁)
・情けに訴えかけるチャリティではなく、費用対効果の高い方法でいのちを救い苦痛を減らすことを証明できるチャリティに寄付を行う(101頁)
・功利主義をチャリティに当てはめたバージョン
・いちばん大きいインパクトを与えることを目指す(232頁)
・チャリティを情緒でなく数字で捉える(232頁)
効果的な利他主義の例
・質素に暮らし、収入の大部分をもっとも効果のあるチャリティに寄付する
・どのチャリティがもっとも効果的かを調査、議論、または調査を参考にする
・<たくさんのいいこと>ができるように、いちばん収入が大きいキャリアを選ぶ(
・身体の一部を他人に提供する
・その他の倫理的なキャリア(旗ふり役・官僚・研究者・社会起業家や活動家)
効果的な利他主義に共通する<いちばんたくさんのいいこと>という価値観
ほかのことがすべておなじなら、より苦しみが少なくより幸福な世界を目指す
効果的な利他主義を動かすのは共感ではなく理性
・自分の「傾向や好みや愛情」から独立した視点で、自身の生き方を評価する。(114頁)
・効果的な利他主義者は特定の人を助けるよりも自分が助けられる人の数に興味を持つ(118頁)
・理性は感情をコントロールすることで倫理的な行動に欠かせない役目をはたす(115頁)
気づいたこと
以上、ざっくり『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと<効果的な利他主義>のすすめ』をまとめてみました。
功利主義を社会貢献にあてはめた「効果的な利他主義」が、欧米ではムーブメントになりつつあると。ただ思うのは、そもそもチャリティの文化が希薄と言われる日本で、「効果的な利他主義」は受け入れられるのかということです。
また、いまはクラウドファンディングのプラットフォームがあるように、その土壌はありつつ、さまざまなソーシャルビジネスや社会的な取り組みを数字で評価する指標はあまりないのかも。指標は「効果的な利他主義」の大前提なので、そこをきちっとつくることが大切になってくるのでは、思いました。
【読書録】現代日本のリアリティ/アイデンティティ-『社会学入門 人間と社会の未来』見田宗介-
以前のエントリでは、見田宗介さんの『社会学入門 人間と社会の未来』から、現代の日本社会をみる3つの時代区分をまとめました。
日本では、高度経済成長期を通して農村共同体が解体され、家族のかたちは拡大家族から核家族になっていったと。
今回は、そのことが個人のアイデンティティやリアリティにおよぼす影響について、前回と同じく『社会学入門 人間と社会の未来』から読み解いて行きます。
キャリアは”自分探し”ということばで語られることもあるように、アイデンティティやリアリティと密に関わっています。現代のキャリアを考える時に、現代人のアイデンティティやリアリティのありようを理解しておくと、”なぜぼくたちがこのようなキャリアを望むのか、あるいは望まないのか”を理解するための補助線となるはずです。
それでは、ポイントとなる部分をまとめていきましょう。
家郷喪失者の誕生
さきほども書いたように、1960年代に高度経済成長期がはじまると、農村共同体が解体・再編成され、多くのひとびとが新しい労働力として都市に流れこみました。こうした、「農村」という家郷=ふるさとをうしなった「家郷喪失者」の孤独と不安を推力として、社会の高度近代化が押し進められていった、と見田さんはいいます。
「家郷」は、そこで生活を営む個人にとって2つの意味を持っていました。
・生活の共同体:人間の生の物質的な拠り所
・愛情の共同体:精神的な拠り所
です。
たしかに農村では、出産や婚礼、防災や葬式など、生活にかかわるさまざまなことがらを助け合う仕組みがありました。また、親と結婚した子ども家族など親族が同居する拡大家族は、精神的な支えとなりました。農村を出て、都市に流入した家郷喪失者は、このふたつの意味あいをもつ共同体を、あらたに獲得しなければなりませんでした。
近代市民社会の二重の戦略
近代の市民社会の古典形式(つまりこの時代の社会のシステム)は、この二重の要請を<核家族/市場経済システム>によって満たします。
まず、第一次共同体のもった人間の「人間の生の物質的な拠り所」としての側面を、「市場のシステム」として”開放”しました。農村が担っていたさまざまな機能ー婚礼や防災や医療や年忌や建築などなどーは、市場から調達されるものとなりました。
また、人間の生の「精神的な拠り所」としての側面は、「近代核家族」として”凝縮”しました。農村では親族や、ときには近隣のコミュニティまで、精神的な拠り所とされていたでしょうが、都市では拠り所となるのは配偶者やこどもといった家族に限定されていきます。
二重の戦略の矛盾
こうした二重の戦略は、近代核家族が市場システムの生産的な主体である「近代的自我※」を生み出すという意味で、見田さんいわく「見事な戦略」でした。
※説明がむずかしいですが、ざっくりといえば、自分自身を共同体から独立した存在として考える考え方。
しかし一方で、この二重の戦略は矛盾をかかえています。愛情の共同体である近代核家族によって産出された近代的自我は、産出するもの(近代核家族)の否定に向かう傾向を内包していたのです。(近代的自我は、”わたし”という存在を家族という共同体からすら独立したものとして考えるようになる、ということでしょう)
<親密なもの>の濃縮と散開
こうした状況が、ひとりの人間のアイデンティティ/リアリティに対して引き起こすのは、「<親密なもの>の濃縮と散開」です。
日本の近代市民社会の創成期には、さきほども書いたように農村共同体の解体によって開放された<親密なもの>の濃縮として、愛がただひとりの異性に向けて向けられました。見田さんはその例として、1960年代初頭を代表するヒット曲「アカシアの雨がやむとき」では青春の切実な問い(自分が死んだら、”あの人”は涙をながしてくれるのか)がただ一人の”あの人”に向けられていると指摘します。
一方、1999年にカラオケボックスで18歳という若さで自死したネットアイドル、南条あやは、死の前日に4つの断章をメールで配信しました。「私が消えて 私のことを 思い出す人は 何人いるのだろう…」。また、翌2000年には17歳の犯罪が多発します。その特徴は、対象の任意性、不特定性、動機の非条理性でした。
この2つの例にあらわれているように、1960年代初頭の近代市民社会の創成期から、1990年代後半〜2000年代に入り近代市民社会が解体してくると、「社会の親密圏/公共圏をめぐる構図の、知覚の転変と正確に照応(115頁)」しながら、「自己の存在の『証し』をめぐる切実な問いの方向(115頁)」は転回する。
農村という第一次共同体をうしなった個人は、ただ一人に愛着をみいだす。やがて、家族という共同体をうしなった個人は、不特定多数に愛着を見出す。こうした様相を、見田さんは「<親密なもの>の濃縮と散開」ということばであらわしました。
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以上、『社会学入門 人間と社会の未来』のポイントを簡単にまとめました。
<親密なもの>が散開し、不特定多数に<親密なもの>を求めるようになると、まさに相手が「不特定」、そして「多数」であるがゆえに個人のアイデンティティも不安定なものになってしまう危険性があるでしょう。
そうしたアイデンティティが不安定な状況にあるひとにとって、「仕事」とはどういう意味合いを持つものになるのか。「仕事とアイデンティティ」の関係については、あらためて考えてみたいと思います。
【イベントレポ】日本的雇用の特殊さを理解するための「membership contract -job contract」という構図 -GHC sumitt #002-
「GHC sumitt #002」というイベントに参加してきました。「GHC sumitt #002」は、世界各国の人と日本人のプロフェッショナルが、一緒に日本でのあたらしいはたらきかたを考えるインタラクティブなセッション。今回は”日本の雇用”について、議論がおこなわれました。
とくに印象に残ったのは、三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社の組織人事戦略コンサルタントである名藤大樹さんの「membership contract -job contract」という話。備忘録的に、ちょっとまとめてみます。
membership contract とjob contract
これらふたつは、それぞれどのようなことなのか。その違いをざっくりまとめると、次のようなものになります。(ほんとにざっくりです)
membership contract
所属の契約。日本で特殊な発展を遂げた、「総合職」という雇用のしかたがこれにあたる。企業と所属の契約を結ぶので、勤務地や給与や業務など企業側の都合に左右されがち。だがそのぶん、大きな仕事ができてスキルアップが期待できたり、社内での出世ができたり、福利厚生や生活の保障はしっかりしている。(これに対しては、「いまはもう総合職だからといって保障がしっかりしているわけではない」との意見も)日本の雇用形態のヒエラルキーでトップに君臨する。
job contract
業務の契約。日本の雇用形態のヒエラルキーでは、おうおうにしてmembership contractよりも下に位置する。企業と所属の契約は結ばないので、勤務地や給与や業務など企業側の都合に左右されないでいられる。反面、生活の保障がmembership contractほどじゅうぶんになされないことが多い。
名藤さんによれば、海外ではjob contractが一般であるものの、日本では反対にmembership contractが一般的であり、membership contractを会社と結んだ個人が雇用のヒエラルキーの上部にいると指摘しました。
日本的雇用は変わりつつある?
会場に来ていた外国人参加者からは、membership contractがわりと一般的で、極端な話会社に奉公することが美徳ともされていたような日本の雇用のしくみに、驚きと戸惑いの声が聞かれました。
とはいえ、多くの日本人参加者が指摘したように、membership contractとjob contractの待遇格差など、垣根をとっぱらおうという動きが進み始めているのも事実。いまも政府は、同一労働同一賃金の実現に向けて取り組んでいます。
ぼくも、長期雇用を前提としたmembership contractは、そもそも長期雇用を会社が保障できなくなってきたいま、難しくなりつつあるんじゃないかと感じています。たしかに社会に根付いた慣習が変わるのは難しい。ですが、すこしずつ、確実に変わっていってるんじゃないかな、しかも柔軟性のないこのしくみを変えていかなくてはならないな、と思う次第です。
【読書録】現代日本を理解するための3つの時代区分-『社会学入門-人間と社会の未来』見田宗介-
以前のエントリでは、見田宗介さんの『現代社会の理論』から、現代社会を情報化・消費化社会として見る視点をまとめました。
『現代社会の理論』の続編とも位置づけられるのが、今回紹介する『社会学入門』。”わたしたちが生きる現代社会とはどんな社会か”を考える上でのヒントがたくさん詰まった一冊なので、何回かに分けてぼくがポイントだと思った部分をまとめます。
今回は、「 3章 夢の時代と虚構の時代」について。戦後から現代までの日本社会が、どのように変わってきたのかを、高度経済成長期を軸に3つの区分を用いて説明している部分です。
それでは、その3つの区分について順番にみていきましょう。
<理想の時代>プレ高度成長期 1945-1960
終戦から1960年までは、人々が理想を求めて生きた時代だと見田さんは述べています。具体的には、アメリカのような物質的豊富さを求めた時代です。当時の日本には、第二次大戦ではアメリカの圧倒的物量の前に破れた、という意識があったことが、根底にありました。
政治思想の点では、当時の日本には2つの理想が支配していました。
(1)アメリカンデモクラシーへの理想
です。
こうした2つの理想主義的党派は現実主義的な権力に1960年の安保闘争で破れることになります。ここまでが、理想の時代。
<夢の時代>高度経済成長期 1960-1973ごろ
そして訪れたのが、見田さんが現代日本社会が形作られたと指摘している高度成長期。
日米安全保障条約改定を目指した岸内閣の後を引き継いだ池田内閣(1960-1964)による「日本社会改造計画」によって、その方向性が決定づけられます。
「日本社会改造計画」には2本の柱がありました。「農業基本法」と「全国総合開発計画」です。前者で小農民の切り捨てにより伝統的な農村共同体が解体され、後者で全国土的な産業都市化が進められました。そうすることで、高度経済成長にとって必要な資本・労働・力場が形成されました。
農村共同体が解体されたことで、それまでの拡大家族(親と、結婚した子供の家族などが同居する家族形態)から、核家族へと、家族の形も変わります。
このような劇的な変化のただなかにあった日本社会を覆っていたのは、”幸福感”でした。見田さんは次の6つが、その幸福感の背景にあったと指摘します。
・衣食住という基本的な欲求が満たされたこと
・ベビーブーマーが思春期という感受性豊かな年代にいたこと
・古い共同体から近代核家族という新しい自由な愛の共同体が生まれたこと
・この局面の経済成長が階層の平準化に向かう方向で機能したこと
・大衆の幸福と経済繁栄が好循環する「消費資本主義」が日本でも成立したこと
・戦中から戦後という貧しさと悲惨の時代の憶が新しかったこと
しかしこうした幸福な時代も長くは続きません。1974年のオイルショックをきっかけに、1974年に戦後始めて日本はマイナス成長を記録します。
<虚構の時代>ポスト高度成長期 1970年代後半-現在
高度経済成長期のあとに訪れ、現在まで続いているというのが<虚構の時代>。
経済的には1970年代中葉をとおして、高度成長から安定軌道への軌道修正が追求されます。夢の時代の終焉と呼応して、「終末論」と「やさしさ」という1974年の流行語が、その後20に渡って時代の完成の基調を表現する言葉となります。
さらにこの時代の日本人には、ある感受性の変化があらわれます。見田さんが挙げるのは次のようなことがらです。
・関係の最も基底の部分(家族のコミュニケーション)が、演技(虚構)として感覚される(家族のだんらんは、”わざわざしなくてはならない”もの)
・「映像や写真に写されたものこそが真」という認識論=存在論(電線にとまるスズメをみて「スズメが映っている」と言う幼稚園児の感覚)
・土のにおいや汗のにおいといった、リアルなもの、自然なものの脱臭に向かう、排除の感受性(カワイくないもの、ダサいものを排除する遊園地的空間としての渋谷)
・人間の内的な自然(肉体のリズムなど)の解体と限界という界面に展開しつづける、戦闘の形態(24時間戦うことを強迫されるビジネスパーソンの、薬剤と心身症)
つまり、家族のコミュニケーション、写真の向こう側にある現実のモノ、肉体のリズム、土のにおいや汗のにおい……といったリアルなもの、自然なものが、虚構にとってかわられていく。そんな時代が、1970年代後半から現在まで続いていると見田さんは述べます。
※ちなみに、ふと思い出したのですが、『暮らしの手帖』をつくった花森安治さんは、みずからの戦争の期経験から「暮らしという身近なところへの視点を欠いてしまうから、戦争が起こってしまう」(うろ覚えです)といった考えから『暮らしの手帖』をつくったと、どこかで読んだ記憶があります。戦後すぐに、自然やリアリティのたいせつさに気付いていたその視点のするどさに驚かされます。
リアリティへの揺りもどしが来ている?
「虚構の空間と虚構の時代は、どこまでつづくか?」
これが見田さんがこの章の最後に投げかけた問いです。ぼくは3.11を大きなきっかけとして、虚構性からリアリティとか自然への揺り戻しがきているのではないかな、という肌感覚があります。
たとえば書店に並ぶ雑誌の見出しを見ても、エコやロハス、田舎暮らしやIUターン、など、リアリティへの揺りもどしを想像させるような言葉がならんでいます。
いっぽうで、「カワイイ」という見出しのファッション紙や「効率化」という見出しのビジネス紙、「モテるインスタグラムのコツ」などの、見田さんが述べるところの虚構性を象徴するような雑誌も並んでいて。
書店でのこの”リアルと虚構”のせめぎ合いは、ちょうどいまの日本社会が”リアルと虚構”のあいだでゆれている、ひとつの過渡期であるということの現れてあるようにも思います。
ただ、”リアル”とか”自然”という方向性に向かう時に、高度成長期に解体された農村共同体や拡大家族はほとんど残っていない。だから、それらの変わりとなる地域でのコミュニティや、疑似家族(シェアハウスなど)があちこちで生まれているのでは。
さて、わたしたちが迎えるこれからの社会は、いったいどのようなものになっていくのか。また、どのようなものにしていくべきなのか。それを考える上で、この本はとても参考になるので、興味があればぜひ読んでみてください。